第19話:HER:STORY【11】
「……いまのは」
「おまじないだよ、クドウ。私から君への」
あの日、部屋を去る直前。
ジルは、クドウに口づけをして、自らの血を、ほんの少しだけ、分け与えた。
途端に、身体の内側があたたかくなって、優しい気持ちに包まれた。
同時に、牙が、削り落としたはずのそれが、ずきずきと痛み始めた。
「私もかつて、そうやって力を与えられたんだ。吸血鬼の血は、互いに食い尽くしあうが、ドラキュリーナは、その逆だ。互いに尽くして、互いを高めあう。だからもし、私に何かがあれば、君が」
◇
――きみが、わたしの血を、飲んでくれ。
――えぇ。そうする。あなたを、救う。
「貴様、牙と爪を……伸ばして……」
「落第生、だから……」
ジルの頭はがくりと垂れ下がる。
生のくびきから解き放たれたのだと感じた。彼女の苦痛は終わったのだ。
別れを告げるように、最後の血を、喉に流し込んで。
彼らのほうを、向いた。
怯えたような、吸血鬼たちの視線。
……身体に、奇妙な震えがはしる。
歪んだ悦び。自分はもう戻れないのだと分かる。それでもいい。
口の端を曲げて、真っ赤な口で笑ってみせる、誰よりも派手な口紅。
「貴様、貴様ぁっ!」
吸血鬼たちが、牙を剥き出しにして、飛びかかってくる。
クドウは、こわくなかった。
◇
それは蹂躙の絵画だった。
力を得たドラキュリーナは、通常の吸血鬼をはるかに上回る殺戮の力を得る。
それが恐れられたからこそ、いびつな搾取構造が作り出されていたのだ。
クドウがその爪と牙で彼らを引き裂き、首を引きちぎり、影から無数の蝙蝠を散らしていくなかで、吸血鬼たちは、その宿命を、自らの命で思い知ることになった。
悲鳴を浴びながら、彼女は狂ったように笑っていた。ジルという名前だったドラキュリーナの身体は、いつの間にか砂になって消えていた。
それでいいのだと思った、何にも脅かされることのない、真の永遠へと彼女は向かったのだ。
――さようなら、さようなら、ジル。
何度も叫んで、やがて彼女は、吸血鬼たちを、殺し尽くした。
◇
◇
学校を、森を抜け出して、旅に出る。
吸血鬼に生き残りがいれば、自分を追いかけてくるだろう。
――自分は裏切った。二つの種族の、最悪の裏切者だ。
どこか遠くへ行く必要があった。
校門から、外界への最初の一歩を踏み出そうとしたとき。
後ろを振り返った。
「あ、ああ……クドウ」
級友たちが、呆然と立っていた。
真っ赤に染まった自分を見て、すべてを察したのか。地下の情景を実際に見てしまった子も混じっていたかもしれない。
「どうしたの」
「あの……本当は。わたしが、言ったの。彼らに。あなたが寝静まった後、どこに行ってるか、って。誰に会っているか、って……」
「……」
それを聞いても、さほど驚かなかった。
誤差の範囲だ。
告白した元級友は、気の毒なほど怯えていたが。
「そう。もう、どうでもいいわ」
「クドウ……」
「そのかわり。二度と私に関わらないで。名前だって呼んでほしくない。それだけ……じゃあね」
なおも、声がかけられそうな気配がしたが、結局そうはならなかった。
立ち尽くすドラキュリーナたちを、森の奥深くの屋敷に置き去りにして、クドウは、外界へと旅立った。
◇
その後、その場所には二度と立ち寄ることなく。
何年、何十年、何百年と、時が過ぎていった。
吸血鬼たちの追跡は執拗で、殺意と憎悪に満ちていた。
それらをかわしながら、幾人もの従者を見つけ出し、そして別れていった。
ただのひとりも、忘れていない。
皆、本当に大切だった。
二番目に新しい従者は、北欧の地で出会った少年だった。
自ら境界線を越え、数十年。すっかり年老いた彼は、自らの意思で去っていった。
その後の行方は知らない。
◇
◇
そしていま、クドウは、遠く離れた東洋の地で、一番あたらしい従者とともにいる。
「ふぁ……せんぱい、あたし、かなり夜型になってきましたよ。そう思いません、久遠先輩」
頼子は目をこすりながら言った。
いまは、久遠だ。
「馬鹿ね。貴女は人間なんだから、眠れるときに眠っておきなさい」
「えー。あたしは眷属がいいって、言ってるじゃないですか。ほら、月だってちゃんと綺麗に見えますよ、あたしにだって」
見上げると、窓からは、赤い月。
そう、あの頃と、ちっとも変わらない。
――その昔、あの月光を合図に、あの人に会いに行ったっけ。
「そうね、本当に綺麗――」
頼子を、そっと引き寄せようとした。
「……げ、見てください、先輩」
「……」
雨が降り出して、夜と月を、汚し始めた。
頼子は、せっかくのいい景色だったのに、と呟いている。
久遠はそのまま空を見ている。
こころのなかで、ある決意が、徐々に育っていく。
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