第18話:HER:STORY【10】

 なぜ、どうして。


 わからない。心臓が跳ねて、顔を上げると、月が異様な色をしていた。いつもの赤に、どすぐろい何かを混ぜたような。

 異変が起きている。ジルに。予感があった、どうしようもなく。

 床を見ると。

 絨毯に、血が滴っていた。しゃがまずともわかる、彼女のものだ。

 それはよく見ると、扉の向こうに続いていて、自分がやってきた廊下の、さらに奥へと、点々と連なっていた。

「ジル……」

 追いかける。

 もう何かが起き始めている。

 永遠は打ち破られた、あっさりと。あの甘美な時間がずっと続けばという祈り、それそのものがきっかけなのか。これは、その報いなのか。

 だとしたら――自分は、いったい、なんということを。

「ジル……無事でいて……!」

 血だまりは廊下を何度も曲がっても、なお続き。

 やがて、誰も足を踏み入れないような奥まった区画の、さらに、地下へと向かう階段へと続いていた。

 この一歩を踏み出せば、もう元には戻れない気がした。

 構わない。彼女を救い出すためならば。

 クドウは、階段を降りて。

 使い魔の像で装飾された重々しい扉を、開いた。


 そこにはジルが居た。変わり果てた姿で。



 着衣をすべて剥ぎ取られ、素肌に無数の傷と青あざをつけられたジルが、先端を欠いた十字架状に、天井から鎖で吊り下げられていた。

 引きちぎられ、乱れた髪、色素を失った唇、虚ろな瞳。

 首筋には管のようなものが突き刺さっていて、それは垂れ下がり地面を這い、その座敷牢のような部屋の中心部に配置された、ぼこぼこと何かが湧き立っている巨大な窯のようなものに入り込んでいた。

 時折ジルは呻き、痙攣する。管と皮膚の隙間から、血が漏れる。

 ……吸われているのだ。人間にそうするように。

「ジル……ああ、なんてこと……」

「おい。ちゃんと拭いておかないからこうなるんだ、まったく」

 声。振り返る。

 吸血鬼たちの姿があった。あの時の長髪の者を先頭にして、数人。

 悪戯をした者をしかりつけるような、呆れた表情。

 その、余裕をたたえた貌と、この状況のあまりの落差に、意識が遠のきそうになる。

「あなた、達は……彼女に、何を……」

 ジルを見る。

 もはや、自我を保っているようにさえ見えない。その双眸には、何も映していない。

 クドウも。

「分かってるだろう。そもそも、ここに来るということは、全部知ってるはずだ」

「まさか……」

「罰だ。単純な話、分際をわきまえないから、そうなった。それだけの話。悲劇でもなんでもない、ありふれた話だ」

 かつて、同じような韜晦で、ジルは自分の過去を語った。

 だけど、内容がまるで違う。

 比べ物にならない。比べてはならない。

 クドウのなかで、疑問が無数に膨れ上がっては消えていき、純然たる「なぜ」だけが口から吐き出される。

「彼女に何をしたの」

「管が見えないか。血だよ、抜き取って、精製してる。アレを飲むとな、穏やかな気持ちになるんだ。彼女はひときわ上玉だから、より甘美になると思う。これまでより」

 これまでより。

 これまで。今までも、何度も。

「俺たちが長続きしてるのは、身内での争いを防いできたからだ。それが出来ずに、内輪もめで滅んでいった種族はごまんといるだろう。だけど、ドラキュリーナはありがたい。彼女たちの血は、俺たちをより高潔に高めてくれる……」

「おいおい、まるであいつらが自分で捧げに来たような言い方じゃないか」

「似たようなものだろう。どういうつもりかしらんが、こちらの領分に自分から首を突っ込んでくるんだから」

「そうだな、ははは」

 彼らは笑った。

 あの、決闘の時とまるで変らない調子で。

 ひとりのドラキュリーナが、もとをたどれば、同じ血族であった者が、今ここで死を迎えようとしている、この時に。

「……ふざけ、ないで……許せない」

 ジルを縛り付ける鎖を掴んで、解こうとする。だが、まるで効果がない。

「よせよ。特別な呪法をかけてある。もはやそいつは――苗床だ」

「……っ!」

 侮蔑を含んだ視線。

 ――過ちを犯したのはこちらだと、そう言いたいような。

 クドウは、管を掴んで、強引に引き抜こうとした。すぐに止血すれば、命だけは助かる――そう思った。

 だが、その瞬間、ジルの身体はがくがくと震え出して、苦悶に激しく呻いた。

 ……股の間から、生暖かいものがもれている。

「だから言っただろう、苗床だと。もう彼女は元には戻らない。でも、そうしてる限り、死にもしない。よかったな」

「そんな……」

 この先、いくらでもあったはずの、そうであってほしかったはずの時間が、真っ黒な絶望に塗りこめられる。力が抜けて、その場でくずれおちる。

 こんな、いとも簡単に。

 ジルが何をした。吸血鬼そのものに干渉したことなど一度だってなかったはずだ。ただ、思ったことを言っただけ。自分たちの関係だって、秘密のままで、誰にも強要をしなかった。

 彼女は誰よりも多くのものを見ていて、ここにいる誰よりも優しかった。そのはずなのに。

 なぜ、こんな仕打ちを受けねばならない。

 なぜ。

「自業自得だ。さぁ、お前は見たものを忘れることが出来る。幸いにして、お前は『見た』だけだ。記憶さえなくなれば、明日からまた、敬虔なドラキュリーナでいられる。ここにいる淫売と違ってな……」

 吸血鬼が奇妙なほどやさしい言葉で歩み寄り、耳元で言った。

 手をかざし、顔にかぶせようとする。

 記憶を操作して、送り返そうとしているのだ。約束をたがえることはないだろう。

 彼らにとって、現状に波風を立てることが、もっともあってはならないことのはずだから。

 そう、何も変わらない彼らの日々。

 互いに笑い合い、種族としての誇りを胸に生き続ける。

 その足元には、ドラキュリーナたちが跪いている。物言わぬ贄として。

 誰も理解しようとしない、彼女たちの苦しみを。そんなものはないからだ。

 あるいは、もし何かを悟ろうとした愚かな者は、ここに連れてこられて、ジルと同じような目に遭う。遭ってきた。壁に床に、無数のシミがある。苦痛と嘆きの歴史。

 彼女たちの――わたしたちの。

 いまならわかる。

 なぜ、先生があんなにも、吸血鬼とドラキュリーナの違いについて、その社会の成り立ちについて説いていたか。

 それは、我々上位種の世界は決して永劫安寧であるからではなく、極めて不安定な基盤の上に成り立っているからだ。

 だから、信じ込ませねばならなかった。言葉で、あの、血の甘美さで。それらの毒薬で、麻痺させて。

 なんて。

「なんて……かわいそうな」

「ああ……?」

 吸血鬼は手を止めた。

「なんて、かわいそうなひとたち……そんな風に強がらないと、自分を保てないのね……」

「……貴様」

 ――拳が、頬を打った。

 倒れこむ。

「おいおい、落ち着けよ。ただの減らず口だろう」

「だから黙らせるんだ。寝床に返すまえに、痛めつけて、身体に染み込ませなきゃならないらしい」

 長髪の吸血鬼は、クドウの襟首をつかんで持ち上げる。

 拳を固めて、胎にあてがう。

「ぐ、うう……っ」

「ドラキュリーナはな……喋らなくていいんだよ。耳障りだからな……」

 苦痛がはじける、その間際。

 クドウは見た。ジルを。

 その、ジルだったものを。


 瞬間、助ける方法を、解き放つ方法を見つけた。

 それしか思いつかない。

 実行するのは、いま、この瞬間しかない。


「ぐ、あっ」

 クドウは彼の腕に、爪を立てて、思い切り握りこんだ。

 解放される。

 ジルのもとへ駆け寄る。

「貴様、爪を……何故」

 なぜ、伸びている。

 そう問いたかったはずだ。

 だって、ドラキュリーナは、必ず短くしているようにと、先生に教わっていたはずなのだから。

「わたしは」

 彼女の、首の、管を。

「もう、ドラキュリーナじゃあ、ない」

 強引に、引き抜いた。

 ――鮮血が噴き出して。

「よせ、馬鹿め、やめろ――」

「……――お前たちの、支配は受けない」

 ふさぐように、彼女の首に、かみついた。

 喉に、血が、そのいのちが、流れ込んでくる――……。

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