第20話:ツァイトガイスト【1】
薄暗い部屋で、頼子は目をさます。
「おはよう」
誰に言うでもなく、そう呟く。
部屋にはテキストと勉強道具、それに数冊の本。
『吸血鬼の伝承』『東欧の歴史』。
それで満足だ。彼女の暮らしは、すべてがととのっていた。
起きて、朝食をとる。カチャカチャという食器の音がわずかに響く。
十分な量を食べることが出来るのも、あの人の、この土地に居るわずかな支援者たちのおかげだ。彼らは裏切りの烙印を押されるのを避けるため、決して姿を現さない。
だけど、ありがたかった。自分が今の立場に置かれてから、要素のすべてが、自分を支えてくれているような気がした。
「いってきます」
学校へ向かった。きいっ、という扉の音だけが響いて、家には誰も居なくなる。
その静寂は、これまで決して得られなかったものだった。
学校についてからの時間は、まるで幻影のように早回しで過ぎていく。
同級生たちの会話も、先生の授業も。
何もかもが、自分とは別の時間軸で動いているような。
はじめ、その感覚に戸惑ったものだった。だけど今は慣れたものだ。影になるとはこういうことかと思う。
混沌とした世界の外側に置かれると、こんなにも灰色に見えるのだ。
そして彼ら自身も、自分を認識していない。たまに、首を突っ込んでくるバカが居るけれど、それぐらいだ。
別に、それでいい。
本当の自分の時間も世界も、今からだ。
夕刻、橙色の光が教室に降り注ぐころあいに、頼子の足取りはかろやかになる。
必要なものをかばんにつめこんで廊下を進み、その場所へ。
スライドドアを開けると、あの人がいる。
「おかえりなさい」
久遠は、何百年分のしみわたる笑みを浮かべて、言った。
「……ただいま」
頼子は、その日はじめて、わらった。
◇
「それでね、おもったんですよ。やっぱちゃんと終わらせなきゃなぁって」
「そう」
頼子が大きな真っ黒の日傘をさして、久遠がその影の中にいる。
二人、夕暮れのなかを連れ立って歩いている。
帰りの通学路で、他の学生たちが、近所の人たちが、車が通り過ぎていく。
彼らの笑い声が、おとが、さざなみのように耳に聞こえては離れていく。
ゆくてをはばむものはなかった。二人は存在しないかのようだった。
頼子は久遠に、他愛のない話を続ける。
はじめのころは、なんとかして「実のある話」をして苦戦した。
でも、久遠はそんな気持ちをすぐに見抜いて、こわばって、へんにかしこまったことを言うこちらに対して「そんな話つまらないわ」と返してきたのだった。
困った、どうすればいいのか。
やがて、内容よりも、こちらがどんなふうに話しているのか、ひいては、話をしていること自体が久遠にとって大事なのだと気付いた。
頼子が話していて、ときおり久遠の顔を見る――わずかに、微笑んでいるように感じる。そよかぜを楽しむように。
「そっか、それでいいんだ」
ちいさくつぶやく。
「……何が?」
「いいえ、なんでも」
頼子は少し歩調を速める。
すると、久遠はちょっと慌てた。
その様子が、むしょうに愛おしかった。
――知ってるのはあたしだけ。
――他の誰にもわたさない。
「ねぇ、先輩」
「何かしら」
「ずっと続きますよね、こんな日が。願い続けるかぎり」
「……そうね」
頼子はちょっと、いやなきもちになった。
もっとはやく返事をしてほしかった。
それじゃあまるで。
あの男の子に、未練があるみたいじゃないか。
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