第20話:ツァイトガイスト【1】

 薄暗い部屋で、頼子は目をさます。

「おはよう」

 誰に言うでもなく、そう呟く。

 部屋にはテキストと勉強道具、それに数冊の本。

 『吸血鬼の伝承』『東欧の歴史』。

 それで満足だ。彼女の暮らしは、すべてがととのっていた。


 起きて、朝食をとる。カチャカチャという食器の音がわずかに響く。

 十分な量を食べることが出来るのも、あの人の、この土地に居るわずかな支援者たちのおかげだ。彼らは裏切りの烙印を押されるのを避けるため、決して姿を現さない。

 だけど、ありがたかった。自分が今の立場に置かれてから、要素のすべてが、自分を支えてくれているような気がした。

「いってきます」

 学校へ向かった。きいっ、という扉の音だけが響いて、家には誰も居なくなる。

 その静寂は、これまで決して得られなかったものだった。


 学校についてからの時間は、まるで幻影のように早回しで過ぎていく。

 同級生たちの会話も、先生の授業も。

 何もかもが、自分とは別の時間軸で動いているような。

 はじめ、その感覚に戸惑ったものだった。だけど今は慣れたものだ。影になるとはこういうことかと思う。

 混沌とした世界の外側に置かれると、こんなにも灰色に見えるのだ。

 そして彼ら自身も、自分を認識していない。たまに、首を突っ込んでくるバカが居るけれど、それぐらいだ。

 別に、それでいい。

 本当の自分の時間も世界も、今からだ。


 夕刻、橙色の光が教室に降り注ぐころあいに、頼子の足取りはかろやかになる。

 必要なものをかばんにつめこんで廊下を進み、その場所へ。


 スライドドアを開けると、あの人がいる。


「おかえりなさい」

 久遠は、何百年分のしみわたる笑みを浮かべて、言った。

「……ただいま」

 頼子は、その日はじめて、わらった。



「それでね、おもったんですよ。やっぱちゃんと終わらせなきゃなぁって」

「そう」


 頼子が大きな真っ黒の日傘をさして、久遠がその影の中にいる。

 二人、夕暮れのなかを連れ立って歩いている。

 帰りの通学路で、他の学生たちが、近所の人たちが、車が通り過ぎていく。

 彼らの笑い声が、おとが、さざなみのように耳に聞こえては離れていく。

 ゆくてをはばむものはなかった。二人は存在しないかのようだった。


 頼子は久遠に、他愛のない話を続ける。

 はじめのころは、なんとかして「実のある話」をして苦戦した。

 でも、久遠はそんな気持ちをすぐに見抜いて、こわばって、へんにかしこまったことを言うこちらに対して「そんな話つまらないわ」と返してきたのだった。

 困った、どうすればいいのか。

 やがて、内容よりも、こちらがどんなふうに話しているのか、ひいては、話をしていること自体が久遠にとって大事なのだと気付いた。

 頼子が話していて、ときおり久遠の顔を見る――わずかに、微笑んでいるように感じる。そよかぜを楽しむように。


「そっか、それでいいんだ」

 ちいさくつぶやく。

「……何が?」

「いいえ、なんでも」

 頼子は少し歩調を速める。

 すると、久遠はちょっと慌てた。

 その様子が、むしょうに愛おしかった。

 

 ――知ってるのはあたしだけ。

 ――他の誰にもわたさない。


「ねぇ、先輩」

「何かしら」

「ずっと続きますよね、こんな日が。願い続けるかぎり」

「……そうね」


 頼子はちょっと、いやなきもちになった。

 もっとはやく返事をしてほしかった。


 それじゃあまるで。

 あの男の子に、未練があるみたいじゃないか。

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