第21話:ツァイトガイスト【2】
久遠が好きなのは音楽だった。
それはどうやら、ずっと昔からそうだったらしい。詳しくは知らない。
それで、二人が向かうのは小さなライブハウス。
はじめて知ったときはびっくりした。なんとなく、雰囲気にそぐわない気がした。
それで、おずおずと入店して、会計を済ませて、座って。
周囲の人たちは、久遠の姿を見て少し驚いている様子だった。
ラフな服装の、少なくとも大学生以上の人たちが大半であるように見えたから。
そこに、古めかしい学生服の少女がふたり。
だけど、とがめられなかった。
なぜなら、カウンターで既に暗示をかけているから。
ドリンクを注文するのと同じ手つきで、久遠はそれをやってのけた。
彼女のお気に入りは、何番目かに出てくる名前も知らないバンドで。
音楽に詳しくない頼子からしても、あまり「うまい」とは言えない人達だった。
最初の準備に時間がかかって、演奏の途中で楽器がハウリングして、MCもグダグダしていて。
それを、みんな、何とも言えない、奥歯に何か挟まったような表情で見ている。
しかし、久遠だけは違っていて。なぜか、クラシックのコンサートに来ているような――頼子はとうぜん行ったことなどないが――厳粛さで聞いていて。
演奏が終わって、彼らが退出した時。
久遠は、声をかける。
「よかったわ、あなたたち」
彼らは気まずそうに互いの顔を見て、それから言う。
「あの。おねえさん、毎回見に来てくれてるよね。すげえ嬉しいんだけどさ。俺たち、その。自分で言うのもなんだけど。お世辞にも上手じゃあないし……そこまで褒めてもらっていいのかなって」
「何を言うのよ。決まりきった上質のものより、予定調和を乱してくれるほうが、よほど私にはいいのよ。だから応援している。よかったわ」
頼子にとって、久遠はよくわからないところがまだまだある。
このしきたりもそうだ。
彼らは恥ずかしそうにはにかんで再びお礼を言った。
二人はその後は見ることなく、会場をあとにする。
「ねぇ、先輩。よくわからないんですけど」
「何が、よ」
「いや、音楽聴くなら。もっとあるんじゃあないですか。いまならユーチューブだってありますし。先輩の力なら、プロのアーティストを見にいくことだって」
「ばかね」
そこで、久遠はくすっと笑った。
夜の光に照らされる彼女は、その場所でこそ格段に美しく見える。
「それじゃあ、意味がないのよ……決められたものではつまらない。私はいつも、私の予定調和を崩してくれるものを探しているの……」
そう言って、彼女は前に進んだ。
髪がそよぐのを、一瞬、頼子はみとれていた。
しかし、はっとして、すぐに追いつく。
しばらく歩く。
立ち止まる。
ふいに、心に浮かび上がったことがあった。
「……じゃあ、せんぱい」
たずねようと思った。
――じゃあ、せんぱいにとって、あの男の子といっしょの時間を過ごしたことも。
――「予定調和」を崩すため、だったんですか。
久遠が振り返った。
すでに、心が読み取られていたのかもしれない。
彼女の唇が、うたうようにひらかれる。
その時だった。
「――っ!」
なにもかもが「かわる」のが、頼子にも分かった。
空気が肌を刺し、全身に震えが奔る。
空を見上げると、赤い。吸血の赤。でも、いま、久遠はそばにいる。視界がぼやける、しゃがみこむ。
周囲から人々が消えたように感じて。
「せ、んぱい……」
「―ー来る」
小さく呟いた。
久遠は前方を見据えていた。黒髪が、羽根のようにざわめいている――殺気だ。
向かい側の遠くから、歩いてくる、ひとり。
足音はない。ひとつの影のかたまりが、そのまま移動してくるような。
頼子は理解する。
あれは――にんげんじゃ、ない。
久遠が、頼子をかばうように両手を前に広げる。その後ろにかくれる。
影は立ち止まる。
外套を着こんだ、やせ形の男。尖った耳。鋭い牙。
長い髪。青白い肌。
「……吸血鬼」
「ああ。クドウ」
その男は、じっとりとした、悪寒のするような声で言った。
時の止まった空間で対峙する。
「久しぶりだな。何年と、何か月と、何日ぶりになるのかな」
美しいと言ってもよかった。
だが、だからこそ、その姿に、頼子はぞっとした。
いま、なにかの均衡が、くずれようとしている。
「……なんの用」
「あえて、細かい注釈をつける必要もないだろう……俺たちと、お前の仲、だ」
そう言って、彼は外套を翻して、背を向ける。
「……俺たちは、やってきたぞ。ただ、それだけだ」
さいごのことばは、それだった。
気付けば彼は去っていた。
まるではじめから存在しなかったように、風が一筋吹いたかと思うと、まぼろしのように、その場から消えていった。
見上げると、夜の色は元に戻っていて、張り詰めていたものも、一気にときほぐれる。
世界に音が戻って、通行人たちは、座り込んでしまっている頼子を見て怪訝な顔をする。
……久遠は、背を向けて、前を見ている。
こちらを、振り向かず、そのままで。
「……せんぱい」
何かを期待したが、非常に残念なことに、それはかなわなかったので、自分で起き上がり、お尻のほこりを落とす。
近づいて、それから。
どうしようか、どうすべきか、分からなくて黙り込んでしまう。
数秒前までの、極彩色の悪夢のような時間。それが意味することを考える。でなければ、こちらを向いてくれない気がしたからだ。
「ねぇ、せんぱい。なにか言ってください、あたし――」
「……帰りましょう」
それだけ言うと、久遠は、頼子の手をつかんで、引っ張った。
肌に触れられたことは嬉しかったが、その動きはあまりにも性急で、明らかな焦りがあった。
何を、せんぱいは何を思っているの。
分からない。
頼子のなかに、不安がおとしこまれていく。
背中。掴まれた腕。
もう一本で、そこに触れようとしたが、届かなかった。地面がぐるぐる回っていくような感覚があった。
せんぱいが遠い。
せんぱいが分からない。
――あたしは今まで、せんぱいの口から、おもっていることを、きいたことがない。
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