吸血鬼の久遠せんぱい:改
緑茶
第1話:HE:STORY【前編】
前略。
ぼくは、世の中が嫌いだ。
不公平で不平等で、さらに言えば理不尽だと思う。
いちばんゆるせないのは、誰もそれに気付いていないことだ。
◇
ぼくが彼女に出会ったのは、保健室のベッドだった。
ぼくはその日もめまいを感じてそこにやってきた。
すでにさんざん、ぼくの病弱さについて、クラスの連中から揶揄され、ひどいことばを投げつけられてきたあとだった。
ぼくはみんなと同じように運動が出来ない。すぐに倒れてしまう。
かといって勉強ができるわけでもない。要するに何もできない。そんなだから、友達だって居たことがない。
両親はぼくを疎んじていた。とくに、父はぼくに強い男であってほしかったようだけど、のぞみのすべては、弟が吸い上げて持って行ってしまった。
ぼくに残ったのは血のつながりというお仕着せによる、形式上の愛情と、もろくて弱々しい「立場」だけだった。
ほかのみんなが、思い思いの青春を楽しんでいるさいちゅうも、ぼくは床に臥せって、遠くからその様子を眺めることしかできなかった。
その羨望が、やがて嫉妬にかわって、さいごに淡い期待も失われて、憎しみに変わったのも、すぐだった。
ぼくはすべてに攻撃的な態度をとるようになった。それは、ぼくなりの防衛本能だった。
だけど、持っているものたちは、そんなことも理解してくれなかった。ぼくがたんなる愚か者としか思わなかったらしい。
なぜか誰も彼も、ぼくに対し、恵まれたものであるかのように考え、当たってくるようになった。
要するに、まぁ、いじめられていたということだろう。
「くそっ、好きで授業休んでるんじゃないんだぞ……くそっ、くそっ」
僕がベッドに横になると、隣に影があるのが分かった。
保険医の姿はない。あってもなくても関係がない。ぼくはなじみになりすぎて、ぼくのいるベッドは特等席みたいになっている。
それにしても、隣の病床にも誰かがいるなんて。
どうして今まで気づかなかったのだろう。
同じように、横になっている。
ように、見えたけれど。
――長い髪が、白い薄布のむこうでなびいていた。
僕は、どきりとした。
時間が止まっているように見えた。
夕刻。
三時をすぎて。
橙色のなまぬるい光が、保健室全体を支配しているとき。
ぼくは、彼女の、その声を聞いた。
「すさんでいるわね」
その、少し掠れて、でも低音がよく響く声。
いや、歌とさえ形容してもよかった。
ぼくは、はっきり言ってしまおう――魅了されたのだ。
「でも、気持ちは分かるわ」
何も言うことが出来ていないぼくに、彼女はつづけた。
「私も、同じだもの」
そのときぼくは、そう言ってよければ、彼女に恋をしてしまった。
それに必要な条件は多数あるはずなのに、それらをやすやすと通過して、その一文字にたどり着いてしまった。
なんと愚かなことだろう。だが、恋とは得てして愚かなものではないだろうか。
「同じ」という、たったそれだけの言葉に惹かれてしまったのだから。
だけど、無理もない、そう言い訳するには十分な材料がそろっているようにも思えた。
なぜって、その声には確かに――ぼくのような人種にしか持ちえないような、寂寥感、孤独感が滲んでいたからだ。
ぼくは、不躾ながら、最大限の勇気を発揮して、彼女に問うた。
そこで、あっさりと拒絶されてもよかった。
よかったのだが。
彼女は答えた、答えてくれたのだ。
「久遠よ。ただの久遠。そう呼んで」
それが彼女の名前だった。
◇
互いにカーテンをはさんだ、奇妙な交流が、ほぼ毎日、あるいは隔日で、保健室ではじまった。
ぼくはベッドに座る、すると、薄布を介して、すでに彼女がいる。
本が好きで、音楽も好きらしい。ぺらりというページをめくる音と、イヤホンから小さなシャカシャカという音が聞こえてくる。
それだけでぼくは、こころにあたたかいものが満ちるのを感じた。
彼女は言葉少なだったが、紡がれるそれは、着実にぼくに届いていた。
曰く。
「陽の光が苦手なの。だから、ろくに授業に出られない。ほとんどは、夜になってから、自分で勉強してる」
曰く。
「私は何世紀も前にうまれたから、時間の流れがすごく違うの。現代のどんなものも過去の焼き直しにしか思えないし、つまらない」
曰く。
「だから、私は昔の詩集と、それ以外は、漫画しか読まないし、音楽は、昔の管弦楽と、それから――ヒップホップしか聴かない。どれだって同じ」
曰く。
「だから、誰からも私自身を見られないけど、構わないのよ」
彼女はひねくれていた。
それらの韜晦を、息を吐くように語ってみせた。実に素敵だった。
まるで、本当のことのように言いますね、とぼくは言った。
すると、こともなげに、こう返してきたのだ。
「そうよ。私は、吸血鬼だもの」
だったら、ぼくはこのカーテンを開けるわけにはいかないなぁ。吸い殺されてしまいます。
……そう言ってから。沈黙があった。
激しい自己嫌悪に襲われる。
タイミングを間違えた。加減を間違えた。他に何が?
ああ、ああ。
無限の後悔が押し寄せてくる。ぼくはいつだってそうだ、他者のことが嫌いだけど、本当に一番きらいなのは、自分自身だ――。
その時、まるで救いのように、彼女の言葉が、ぼくに届いた。
「あなたは吸わないわ――だって、あなたは。ほかと、ちがうもの」
もう、ぼくには。
彼女以外、どうでもよくなった。
夕刻に訪れる「その時間」以外は、なにも。
◇
それでもぼくが決してカーテンを開ける気にならなかったのは、変化をおそれていたからだ。
ぼくが何かを決断して行動に移したことで、何かがよくなったことなど、まるでなかった。
父と母に逆らった時も、クラスの連中から孤立を決めたときも。
あとになって後悔が押し寄せてくるだけの話だった。
だからぼくも、狂おしいほどそれをのぞんでいながら、彼女を「カーテン越しの彼女」とすることで満足せざるを得なかった。
その時までは。
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