第2話:HE:STORY【中編】

 ぼくはいつものように、足早に保健室に向かう。

 その途中、ぼくには心無い言葉が浴びせかけられる。


 ――あいつ、サボってるだけじゃねぇの。

 ――自分を特別だと思いやがって。


 彼らは、走ったらすぐに息切れして、やがて気絶してしまう人間のことを知らない。

 彼らは、食事のたび、食べられないものを除去するのに大半の時間を要する労苦を知らない。

 彼らは、孤独とはどういうものなのかを知らない。


 そんな連中のことをどこまでも厭わしく思いながら、同時に、狂おしいほど求めてしまうという矛盾を、絶対に知らない。


 怒りをぶつけたかった。彼らすべてを呪ってしまいたかった。

 それがかなわないから、ぼくは耳を塞いで、足早に廊下を抜けた。


 その道中。

 ぼくは、声をかけられる。


「やめといたほうが、いいですよ」


 不意に、耳の中に直接流し込まれたような、不快な。

 振り返ると、廊下の時計の真下にある柱に、ひとりの女子生徒が居た。


 小柄なことをのぞけば、印象の薄い、有り体に言えば「ごく普通」な。

 そんな少女が、腰の後ろで手を組んで、背中を何度もトントンと壁と触れ合わせながら、ぼくのほうを見ている。

 薄い笑い。親しい者であれば「いたずらっぽい」と言えてしまえそうな。

 でもぼくはその少女を、女子生徒を知らない。つまりは、不気味に感じたということだ。


「A組の、〇〇くん、ですよね。保健室、行くんですよね」


 柱が奇妙にかくかくした影を廊下に投射して、彼女はそれと並行に立っているように見えた。

 バランスが、くるう。

 

 なぜ、そのことを。酔いそうになる。対応できないでいると、次のことば。


「久遠せんぱいは、良いうわさ聞かないですよ。だから、おすすめは、しません」


 なぜ。

 その名が、知りもしない女子生徒から飛び出すのか。

 なぜ――それが、ぼくと関連づけられていることまで、把握しているのか。

 薄気味悪さは不快感にかわって、防衛本能に至る。

 

 ――君には関係がない。

 そう言って、去ろうとする。

 この女は、明確にぼくになにか、いやなものを植え付けようとしている。

 そんなものは、振り切らねばならない。

 これまでもそうしてきたように。


「本当に善意なんです。あなた、ただの人だから。あの人は、よくないです」


「あの人は、ふつうじゃないです。ふつうのひとが、ずっと保健室に住んでるなんて、変じゃないですか」


 ――君なんかになにがわかる。

 そういう人種が居るということから目を背けてきたのが、君たち「ふつう」の人間だ。


「たしかに、かわいいですよ。スタイルいいし。でも、だからって、よくないですよ。見た目となかみは、べつものです」


「知ってますか。久遠せんぱい。ずっと一人だってうそぶいてるみたいですけど。ぜんぜんそんなこと、ないですから」


「知ってますか。あのひとはね、いろぐるいですよ」


 いろぐるい。

 その言葉の解釈は、まにあわなかった。


「要するに、男の人が大好きなんですよ。特に、年下の、後輩くんたちが。病弱な先輩、って、萌えるじゃないですか」


 何を。

 こいつは、何を言っている?

 わかりたくない。

 わかりたく、ない。


 心臓が高鳴る。

 これまで、彼女と交わした会話は、ごくごく観念的なものだった。そこに、昨日の天気や洗濯ものや、朝ごはんの話、政治の話なんて絡む余地はなかった。

 だからこそ――好きだったのに。


 いろぐるい。

 色情狂。

 ……そんな、そんな安っぽい言葉。肉のことば。

 

 頭の中で閃いたイメージ。真っ赤でてらてらした、鮮烈な地獄。


 ああいやだ、そんなところに、居てはいけない、彼女は、彼女だけは、そうであってはならない。


 ぼくは――ほんとうは、彼女の名前すら、知りたくなかったのに!


「だから、あなたも気をつけたほうがいいですよ。あのひと、みんなが学校から帰ったあとで、こっそり、男子たちにメッセージを送るんです。そしたら、律儀にみんな来ちゃうんです。そこで、彼らに何をしてるか――たぶん、あなたは耐えられない」


 ――最後のことばは、もはや耳に届いていなかった。

 ぼくは走って、息も絶え絶えに、保健室に向かった。

 扉を開けた瞬間、どうしようもないほど醜悪な光景が広がっていることを、一瞬覚悟した。


 ……だけど。


「……あら」


 彼女は、かわらずそこに居た。


「――ッ」


 ぼくはカーテンを開けて、彼女の実在を確かめたかった。

 それをする勇気がなかったから、ただ、いつも通り、彼女の隣のベッドにもぐりこんだ。


 そして、観念的な質問をした。

 泣きながら、でも、いつものように。


 彼女は答えた。答えてくれた。


「私は、私よ。変わらないわ」


 ああ、よかった。彼女は同じだ。ぼくと同じ。


 安堵とともに、使命感が噴き上がってくる。



 また両親から連絡だ。いやになる。

 腐敗の象徴だ。

 ぼくの決意は固まる。

 このままじゃいけない。

 ぼくのなかでの彼女を、「固めねば」ならない。

 べつに、それで彼女を救えるとか、そこまで大それたことは考えていない。ぼくなんかがヒーローになれるわけない。

 でも、それでぼく自身を救うことはできる。


 だからぼくは、あの少女の忠告を吹き飛ばすため――いったん帰宅するふりをして、再度、夕刻……学校に戻った。

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