第4話:頼子のはなし【1】
◇ 一年前 ◇
玄関を開けるとつうんというにおいが鼻につく、一瞬ぐらっとするが、すぐに慣れる。
見えてくるのは薄暗い部屋に散らばったゴミ袋と、そのあいだに転がっている檸檬チューハイの空き缶だ。さらに奥に行けば、空いたスキマから、あの女が見えてくる。
「遅いっての、クソガキがぁ」
ザラザラした声だ、猿みたい。最近になって彼女は、それを面白がることをおぼえた。
靴を脱いで進む、一歩、二歩。
空き缶が飛んでくる。
「返事はぁ、返事って言ってんだよぉ!」
当たるわけもない。それは足元に落ちただけだ。いっそ当たってくれれば、キレる理由になるのに。
肩を狭めて、電灯もついていないキッチンを横切る。そのまま自分の部屋に行こうとした。
「まぁまぁほら、帰ってきたばっかだべ」
見える。男の姿。
あの女と同じ場所から、顔を出した男。その動きを見る限りパンツをずり上げている最中だ。いやにてかてかとした、茶色の焼けた足。ひたすらに不快だ。
硬直する。女からは逃げられるけど、男には、どうも。
ぐらぐらと、ふらふらと、まるで地面が柔らかいみたいに、その男はにやにやしながら奥から出てきて、近づいてくる。
趣味の悪い刺繡のシャツに、年齢を考えていないような金髪。歯はスキマだらけで、そこからゲロみたいなにおいがする。
「あー、あんま困らせちゃだめだよぉ頼子ちゃん。お母さんも大変なんだから、ねぇ」
全身を視線で撫でまわされてるみたいに感じて、寒気がする。動けなくなる。彼を見ないようにする。
……影が自分を覆ってきて目の前に。酒の息。
「あんた、余計なことそいつに吹き込むんじゃないよ」
「黙ってろクソが。ほら、こいつで買ってきてよ」
男は、よれよれになった紙幣を突き付けてくる。
なぜかその先端が尖っていて、当たると血が出るような気がしてきた。
だから、彼女はもう我慢の限界で、その差し出された手を、払いのけた。
男は一瞬硬直し、すぐに。
「……おい、てめぇ」
その声が、冷え切っていて。
自分が致命的なミスを犯したことに気付く。
行動は早かった。
後ろを絶対に見ないようにする。手が震えないようにする。それから、ああ後ろから声がする。
「この、クソガキが……」
3,2,1……。
ばたん。
ドアを閉めて、外に出る。脱出。
こもった内側から、聞こえてくる。
――もとはと言えば、てめぇがあのガキを放り出さないからだろうが。
――やめて、あの子は悪くないの、私が悪いのよ。
――だったらきちっとしつけろや、この薄汚い豚がぁ。
悲鳴。くぐもった。たぶん、今のは殴った音だな、とか分析しながら。
敷地を抜けて――通りに出る。
夜が更けるまで、かえらない。
路地を出て車通りへ、両肩でしっかり通学カバンをホールドして歩いていく。なるべく頭を低く。何に襲われるわけでもないのに。
ひとがいる。
自分の左右を通り過ぎていく。
視線。こちらを一瞥する。一瞬が何回か重なるぐらいのわずかな時間。
だけど、へばりつく。どんな目でこちらを見ているのか、はっきりとわかる。
それからささやき声。
――ああ、あの家の。
――かわいそうに。
――でも、あの子もあの子よ。この間挨拶したらさぁ。
――あの子にも責任があるんでしょう。
自分は強くない。
だから、彼らを殺すことも出来ない。
殺されるのは自分のほうだ。
夕暮れだ。なまぬるいかぜ。
遠くの陸橋の電車も、ランニングしてる人も、犬の散歩をしている人も。
部活帰りの集団も。みんな、みんなに見られている。
辿り着いたのは河川敷。
その斜めになっている土手に座り、ひざを抱く。
なるべく、影のばしょで。
……うげっ、お尻が濡れちゃった。
ああ、もう最悪。
彼女は、いつもここに逃げている。
そうして、イヤホンで耳を塞ぐ。音楽は聴かない。ただ、外の音を少しでも減らしたいだけだ。
いまのところ、ここはキショい男たちに声をかけられる場所にはなっていない。そうなれば引っ越さなきゃならない。
とにかく、目を瞑ろう。
それから、夢想してしまおう。
しばらくすると、まどろみがやってきてくれる。
ここから逃がしてくれるのだ。
……だけど、連れ出してくれることはない。
それをやってくれるのは多分、ぜんぜんちがうものだ。ちがうひとだ。
小さいころ、図書館の無料寄贈コーナーに置いていたぼろぼろの絵本。
持ち帰って、ページを開けるとたいてい居る、おうじさま。
古臭い絵だけど、今風のものよりも現実感がないから、かえって、いい。
いつの日か、そんな存在が現れてくれることを考えたっけ。
――でも、とらわれのおひめさまは、つれだされるとき、ぜんぶを投げ出さなきゃいけないよ。
――それでもかまわない。
そしてそれは、いまでも続いている……。
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