第5話:頼子のはなし【2】
空気が変わったのを皮膚で感じて、ぶるりと一度震えて目を開ける、まどろみが一気に晴れる。
顔を上げる。
飛び込んできたのは――真っ赤な月。
空も、黒色が照らされて光沢を帯びている。
そして。なにか、まとわりつくように、風がなまあたたかい。
さすがに、原始的な恐怖みたいなものを感じて跳ね起きる。それから慌てて坂を上って道へ。
すると、見えた。
人々が歩いていた。
何かに誘われるように、だらりと脱力し、呆けた表情で、ある一つの方向―ーその先に月が見える――むかっている。
誰が、というわけではない。判然としない。不特定多数の人影が、影絵が、ふらふらと歩いているのだ。
自分には気付かないようにして。
……夢遊病だ。それが一番形容としてはふさわしい。
その時点で、逃げるべきだった。
しかし、再び視界に赤い月が見えて、心臓が一度激しく高鳴ったときには、それができなくなっていた。
気付けば、頼子もその人々にいざなわれるようにして、列に加わっていた。
――どこに行くんだろう、あたし。
明らかに異様な事態であるのに、寝ぼけた状態がずっと続いているように、意識がはっきりしない。
恐怖心すら、ろくに芽生えない。だからせめて、現状を分析しようと、視界を巡らせた。
はっきりしたことがひとつ。歩いているのは、みな、男性だった。大人の。老人や小さい子供は居ない。背格好や容姿はさまざまだ。
それが共通点であるなら、この先には、一体。
河川敷を抜けて、街へ。
そんなに長い時間まどろんでいたはずはないのに、通りはびっくりするぐらい静まり返っている。
赤い闇の下、通る車の一台もなく、ショーウィンドウにともるあかりのひとつもなく。
――ちがうせかいだ。あたし、ちがうせかいにいる。
途方もないそんな考えが浮かんで、その次には、その先を見届けたいというよこしまな考えが浮かぶ。
絶対に良いことなどありはしないのに、それでもいいと思っていた。なぜなら、自分に失うものなど、もとよりありはしないのだから。
やがて、自分と影たちは、ひとつの場所へたどりつく。
――工場だ。でもあそこ、だいぶまえに社長が死んで、いまは。
その通りで、柵がかけてあったはずだ。
でも今は開いていて、錆びた鉄を無骨に組み合わせた四角形の建物の入り口が、ぽっかりとこちらに向いている。
皆は、そこへ吸い込まれていく。あっさりと境界線をまたいで、侵入していく。
がらんどうの構内をとおって、壁沿いにある階段を、律儀に一列に並んでのぼっていく。
いったい何が起きようとしている。
分からない。分からないけれど、これがおかしなことだと認識できるぐらいには、自分はどうやら正気らしい。
そのまま彼らに連なりたい欲求を抑え込んで、最後尾につく。
何が飛び出してきてもすぐに逃げられるように、ゆっくり、ゆっくりと、二階へ。
――あたしを、どこへ連れていくの。
――天国なんかじゃないってことは、わかるけど。
そして、開けた視界の中で、「それ」を見た。
事務用品の残骸が四隅に散らばった空間、その真ん中に鎮座するように大きな背もたれのイスがあって、そこにひとりの。
ひとりの、髪の長い女性が座っていて。
その足元に、何人も、男たちが、先ほどまで歩いていた男たちが倒れていて。
いま、その女性は、口をひらいて、手前にやってきた男の首筋に噛みついて。
赤い血をすすっていて。
男が、糸が切れたみたいに倒れて、積み重なって。
その背後に、やはり赤い月が見えて。
黒い装束、黒い髪。
だけど、赤い瞳と、赤い唇、ひとすじたれさがる、赤い血が、こちらを射抜いてきて。
頼子は、悲鳴を上げた。
◇
「ああ……まずいな。クドウ」
女性の影から、ひとりの男が姿を現した。
同じような黒い装束に身を包んだ、小柄な年配の男。
「……調査済みではなかったの」
声。低く、だけど、澄んで。倍音が何重にも重なっているような。
昔テレビでやっていた、古い白黒映画の女優みたいな、凛とした。
男を射抜くように、告げられた。
「そのはずなんだが。すまない、あの時間、あの場所に、そんな少女が居るだなんて思いもしなかった」
「謝らなくてもいい。でも、そのかわり」
「ああ。仕事は果たすさ……クドウは目を瞑っていてくれないか」
「優しいのね」
「べつに変わらないさ」
男は、女性の手の甲にくちづけをした。
それから。
後ろ手から、取り出した。
手持ちサイズの、斧を。
その刃が、ぎらりと輝いているのが見える。
近づいてくる。
「済まない、お嬢さん――君は今、数百年前の存在を見ている」
それが、自分に振り下ろされる。
――頭の上か、肩口か、どちらかに、ざっくりと刻み込まれる、その一瞬前に。
「……待って。待って、くださいっ」
頼子は叫び、その場に、ひざまづいた。
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