第16話:HER:STORY【8】
「おはよう」
「ねぇ、クドウ」
「ん。どうしたの」
「さいきん……やけに、機嫌がいいよね?」
そのことばを、自然に受け流せていたかどうか、クドウは少し、こわかった。
あれから時は流れて。
夜、皆と共に目をさます。きっと皆よりもずっと眠い。だけど、いちばんに起きて、着替えて。
授業に出る。
「――つまり、『杜』を抜ければ、そこは昼の種族が数多暮らしていますので、彼らとしても身をひそめないわけにはいかないのです」
「我々は上位種であっても、神ではないのです。もしあなたがたが、今の暮らしを窮屈と感じていたとしても、それは今の間だけ」
「あなたがたは、守られています。彼らに。それに感謝することを、ゆめゆめ、忘れないように」
先生のことば。
「わかりましたね?」
「はぁーい」
頷く。そこにはきっと、そう少なくない真実が含まれていることだろう。
だけど、それ以上のものもきっとあると、今のクドウにはわかる。
先生は納得したように前を向いて、再び話し始める。
級友たちのくすくす笑い。
端の席から窓の外を見ると、月が赤く、自分たちを見下ろしている。
もう、こわくはなかった。
眠りの時間がやってくる。
級友たちのおしゃべりが消えていくころ、クドウはそっとベッドから抜け出す。
そして会いに行く。
――今日は、どんな話をしようかな。
――あの先生の話をしようかな。まったく変わってないと笑うだろうか、それとも、一緒になって憤ってくれるだろうか。
「……どこ、いくの」
ぞっとして、振り返る。
級友だ。ねむけまなこをこすって、こちらをぼうっと見ていた。
なんのことはない、言葉通りの質問だ。バレちゃいない。
「おしっこだよ」
「そう。でも、きをつけてね」
「何を?」
「さいきん。あたしたちのねむっている時間に。変な奴が、お屋敷を彷徨ってるって噂があるの」
「……ねぼけた使い魔じゃ、ないの」
「……ううん。違うの。あんまり、大きな声じゃ言えないんだけど……」
彼女は悩んでいるようだったが、それでも言った。
「あたしたちと、似た姿をしてたって……みんなそれで、おびえてるの。ワーウルフとかだったら、とってもおそろしいって」
一瞬どきりとしたが、すぐに過ぎ去った。
だから、慰めを口にする。
「大丈夫よ、そんなわけない。それに、もしそうだとしても……吸血鬼のみなさんが、やっつけてくださるわ」
薄っぺらいセリフだ。
吸血鬼のみなさん、だって。
だけど。
「……そうよね、そうよね。あの方々、強いもの。あたしたちなんかより、ずっと。あの方々と一緒にいれば、きっと大丈夫、そうよねっ」
手を握ってきた。すがるような、弱々しい力。
「えぇ……」
「はやく終わってほしいわ…………あらいけない、あたしったらごめんなさい。早く眠ってしまうわね」
「うん。おやすみなさい、ポーシャ」
「ええ、おやすみなさい、クドウ」
さっと、部屋を出る。
胸が痛んでいた。
はやくはやく、会いたくって仕方がなかった。
……扉を開けると、彼女がいた。
ゆったりとしたブラウス姿で、待っていた。
「やぁ、来たね。私のかわいいドラキュリーナ」
「……ジル」
その姿を見ただけで、なんだか涙がこぼれそうになり、彼女の傍にいって、座り込んだ。
「おやおや、どうしてしまったのかな。ねずみや甲虫たちが、みんな起きてしまうよ」
「ジル。ジル……私、間違ってるのかしら」
「なぜ、そう思うの」
「私……なんだか、お友達みんなを、ひどく裏切ってしまっている気がして。それがなんだか、とてもこわいの。望んでここに居るはずなのに」
彼女は黙って聞いてくれていた。それは安心感があったが、それ以上に、クドウは渇望する。
「おねがい。私はどうすればいいの。なにか、おおきなものに抱かれていると、安心できるけど、何かが足りない。貴女と一緒にいると、本当にしあわせなのに、なにか急に、足元に穴が開いてしまいそうな気がする。
私の進むべき道は、どちらにあるの……」
「……わからない」
彼女は申し訳なさそうに眉を曲げ、少し笑った。その表情すら美しかった。
「わからないけれど、ひとつだけ確かなことがあるよ」
そのまま、ジルは、クドウの腰に手を添えて、そっと立ち上がらせた。
「……君がどんな選択をしようと、私は、一緒に背負う。傷を負う時だって、一緒だ」
そのまま、手を取って、ステップをゆるやかに。
クドウも、いっしょに。
ごく自然に、二人は、部屋の中で踊る。なんの音楽もないけれど。
「ああ……ジル」
「いい顔だ。君はいま、泣きそうな顔をしている。鼻水だって出てしまうかもしれない。でもそれは、本当の君だ。それでこそ美しい、それでこそ、本当の……」
ふたりのあいだで、音楽が流れている。
クドウの中にあった不安は霧散して、今このときに、この瞬間に身を委ねた。
だから、聞くことはできなかった。
――あなたは、こわくないのか、と。
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