第23話:ツァイトガイスト【4】

 会って、話さなきゃ。

 その一心だった。それはこれまでの彼女の平穏をすべて破壊してしまうかもしれない。夕暮れの保健室も。帰り道のウィンドウショップも。あの、下手なバンドマンたちのいるライブハウスも。

 いまならはっきりとわかる。せんぱいは、それらを愛していたのだ、はっきりと。自分にはまだ理解が遠いと思われるそれらに、せんぱいはなにかきらきらしたものを見出していた。

 追いつきたい、隣を歩きたい。そう思ったことだってあった。

 でも、同時に、いつまでもあこがれていたい、その黒髪を自分の前でたなびかせる存在であってほしい、矛盾した二つの憧憬。

 ただ一つ共通することは――せんぱいに、生きていてほしい。

 じゃなきゃ、何も得られないから。

「せんぱい、逃げて――一緒に。どこか遠くへ。どこまでだって、ついていくから、だから……」

 走る、はしる、はしる。不気味な影が自分を追い上げてくる。

 振り払うように――頼子は、久遠のところへ向かい。

 とびらを、あけた。


 果たして、彼女は、いた。

 だけど。

「――……ッ!」


 息ができなくなる。

 久遠は、あおむけに倒れていた。


 駆けよって、一瞬躊躇したのちにだきおこす。

 頭を持ち上げて、苦しくない姿勢に。彼女の顔が近かった。いま、その肌はいつもよりずっと青白くて。きれいだとか、そんなことを思い起こす余裕もなかった。

 髪は乱れて頬にはりついて、ひどくつめたい汗をかいている。瞳がぼうっとして、こちらを眺めた。

「せんぱい、せんぱいっ……!」

 緩慢な呼吸のなか、かわいた唇がひらいて、言葉をつむぐ。

「よ、りこ……」

 その手が伸びてきて、頬へ。耳と髪を超えて、ふれる。

 柔らかな感触、ぞくっとする、刹那のうちに言葉を待望した、その次に。


「――――……ちが、ほしい」


 囁きほどの音量であっても分かる。

 はっきりと彼女はそう言った。



 聞き返すことも出来ず、その瞬間がいったいどれほどの数値としての時間に換算されるのかもわからなかった。

 だけど、久遠はその瞳で自分を見たまま動かない、返事を待っているのだ。血が欲しい、と。

 反射的に、今の状況すべてをなげうって、答えようとした。

 ……その、わずかな前に。


「だ、めっ」


 答えを出したのは久遠自身だ。

 頬の手をどけて、転がるようにして、頼子から離れて、再び地面にもどった。

 嘘のように素早い動きで、まるで何か恥ずべきことをやったようでもあった。

「せんぱい……?」

「駄目、忘れて、今のを。すぐに……」

「でも、せんぱい、血がほしいって……それって、せんぱいが」


 ――せんぱいが、それほどまでに衰弱してるってことじゃないんですか。

 ――ほら、だって、せんぱい、ろくに血を吸わないから。もっとうまくやれたかもしれないのに。

 ――それって結局。ほら、あの男の子。あの時だってそうで。

 ――ああ、バカバカ、そんなことは今どうだっていいはずで。

 ――事実として、せんぱいに、いま、血が足りていなくって……。


「駄目よ、絶対に。二度とそんなこと、口にしないで」

 当然のように、せんぱいはお見通しで。

 なんだ、そんなに元気なら、バカみたい、なんて思ったりして。そんなことを考えて自己嫌悪して。

 せんぱいはそのあいだにもせき込んで突っ伏して、背中が震えていて、随分と小さく見えてしまう。背中が震えている、そこに手を当てて、さすってあげられたら。

 ……じゃあ、なんでそれをする勇気が今の自分に持てないのだろうか。その理由はどこにある。考えるのが怖い、あまりにも。

 ぐるぐるする頭の中で、二人だけの空間で、イニシアチブを握っているのはやはり久遠だ。

 夜の光は赤くない。差し込んでくるのは街のあかりで、頼子にとっては嫌いなものがたくさん含まれている、不潔な光だ。

 それに照らされて久遠の全身が見えているというのはひどい侮辱であるように思える、とくに、空気の埃の粒で、彼女の輪郭がわかるというのは。

「……私は、決断しなきゃ、ならない……ようね」

「何が、ですか」

「分かっているんでしょう、おばかさん」

 せんぱいは笑おうとして、唇の端を少し曲げたけど、うまくいかず、結局せきこんでしまう。

 ええ、わかっていますとも。

 つまりこういうことでしょう。

 このまま、あの男たちの軍門にくだるか。それとも、自分と逃避行をはじめるか、そのどちらか。

「……あたしは」

「ずっと、謝ろうと、おもってた。今まで、言えなくて、ごめんなさい」

 ――ちょっと、やめてくださいよ、せんぱい。

 ――そんな、ふつうのひとみたいな言い回し、しないでよ。

 頼子は、なんだか泣きそうになる。

「私があの時起こした気まぐれ。あの男の子――あれは、あなたに、従者という重荷を背負わせないための、実験だったの。だけど結果は、知っての通り……結局、あなたにしか務まらないとわかった……

でも、結局、そのせいで……あなたを、危険な目に遭わせ続けている……」

「なんですか、それ……」

「……」

「なんですか、それ。今更過ぎますよ。そんなことを、今の今まで、隠し通せてるつもりだったんですか。ぶっちゃけバレバレでしたからね。あなたのきまぐれには、だいたいのところ、あなたのどうしようもないぐらい

優しすぎる部分が含まれてるってこと。あのへたくそなバンドの人たちに対する言葉だって、もっと普通に褒められたはず、だのに、あんなもってまわった……ああもう、せんぱいのそういうところがね、あたしは、」

 涙が、落ちる。

 ぼろぼろと。たぶん、せんぱいにもかかってしまう。

 それでもいい、少しぐらい驚かせたってばちはあたらないはずだ。

「あたしは、嫌いで……それで、大好き、なんですよう……」

「頼子……」

 その手が再び頬を撫でてきたとき、もう、止められなかった。

 頼子の涙は躊躇なく流れて、その手をドロドロに汚す。しゃっくりみたいな声で泣き始める。合間に何度、久遠の名を呼んだのかわからない。

 いやだ、せんぱいともっといっしょにいたい、でも、じぶんがじぶんじゃなくなったら、せんぱいといっしょにいられない、ああ、どっちもいやだ、ああ。

 ――そのまま泣き続けて、いっそ、せんぱいを、自分の涙で溺れさせてしまおうかと思ったその時だった。


「やっと見つけたぞ……」

 声がした。

 振り向いた。

 一人の男が立っていた。


 そいつのことを頼子は知っていた。

 あの、母の家に転がり込んできた薄汚い男の連れ合いだ。焦点の定まらない目をしていて、酒臭い。

 手にはナイフを持っている。ゆらゆらとこちらに向かってきている。


「あいつは、いいやつだった……いつも、女の娘の話をしていたんだ……」

 ああ。いい奴だったのかもしれない。

 服を買ってもらったことも、食事に連れて行ってくれたことだってある。

 そうだ。母が殴られるのを無視していれば。あいつは――あたしに、よくしてくれていた存在だった。

 せんぱいに出会うまでは、ただひとり。

 だけど、もう、そんな簡単な話じゃあ、ない。


「どうして……」

「かぎつけて、きた……私の力が、不安定になったから……引き寄せられて……」

 息も絶え絶えに久遠が呟く。

 そいつは近づいてくる、一歩ずつ。こちらの領域を侵犯するように。

「……せんぱい」

 答えない。

 俯いている。

 ナイフが近づいてくる。

「――せんぱいッ!」

 叫んだ。

 同時に。


 久遠という名のドラキュリーナは、舞うように跳躍し、男の眼前に降り立った。

 一瞬だった。

 その指先がゆらめくと、刃のような鋭さを帯びて輝き、首筋に叩き込まれる。男の、その部分から、水気のある音がして、倒れた。

 ぐしゃり。

 足元の男を、久遠は見下ろす。髪がかかっていて、表情がよめない。

 男は首をおさえながら、呻いている。致命傷には至っていない。しかし、あと一傷浴びせれば、確実に死ぬだろう。

「……せんぱい」

 こみ上げる思いを、頼子は言葉にのせる。

「せんぱい。とどめを」

「……」

「とどめを刺して、はやく!」

 だが。

 久遠は、それ以上何もしなかった。

 こんごも、自分を追いかけてくるかもしれない存在を、殺さなかった。

 あろうことか、彼女はその場できびすをかえした。

 男を放置する。

 身を翻し、闇のなかに消えようとしている。


 もう頼子にはせんぱいしか見えていない。

「どうして。なぜ、やらなかったんですか。勇気がないんですか、ねぇ、せんぱい――」

「私から離れたら、あなたはただの人間。無事でいて、ほしいのよ」

 違う。そんなことを聞きたいんじゃあない。

 なぜ、今までと違うことをするのか、平気で出来るのか、それだけだ。

 久遠は去っていく。

 去っていく――。


 足音だけが響き、その傍に、ぐったりと意識を失った男の体があり。頼子は叫んでいる。

「あたしは、あなたがいないと、生きている意味なんて、ないのに――!」


 しかし、久遠は返事をしなかった。

 その背中が妙に弱々しく見えたまま。


 彼女は――頼子の前から姿を消した。

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