第24話:ツァイトガイスト【5】

 かなりの月日が経った、と感じる。

 

 こだまするのは彼女の最後のことば。

 それは決して怒りを孕んでなどいなかったけれど、いまの頼子にとっては、憎しみをもって追い出されたのと何も変わらなかった。

 また、ひとりだ。

 母という名の女と、そこにくっついていた男の怒号、悲鳴。何度もリフレインする。あの世界から離脱できたと思っていたのに。


 頼子は、街を彷徨っている。

 世界には、明確な変化がおとずれている。


 空の色が違う。

 久遠が支配する夜とは違ういろ。もっとおどろおどろしい色彩に満ちていて、それがべったりと視界の上半分を覆っている。

 そのたもとで行きかう人々。一見すると、これまでとは変わらないカキワリ人形だ。

 しかし、頼子には、彼らがなんの疑問も持たずに暮らしているのが不思議だった。

 何故なら、街の情景には、もはや――くっきりと刻印されているからだ。

 吸血鬼の、あかしが。


 電子公告、ウィンドウ。看板に、標識。人間が読み取り、学ぶことのできるあらゆる文字媒体に、彼らの呪縛が刻まれていた。おおっぴらに呪文などを書き込んでいるわけではない。

 じつに巧妙に、サブリミナルのように、ただ横を通り過ぎるだけで、吸血鬼のかおりをかぐことになる。そして、細胞に作用して、彼らの存在を自然に受け入れてしまう――自分たちの上位種として。

 さらには、街中で聞こえてくる声、音楽。街宣車、駅の前で演説をぶつ者。ボランティアの募集。彼らの声の中に、頼子は、奇妙なゆらぎを察知する。それはふつうの人々には決して気付けないものだ。

 だが、頼子にはわかってしまう。若い者だけが聴くことのできるモスキート音のように、彼らの声が、日常の音波のなかに紛れている。結果として、人々は、椅子に固定されてヘッドホンで吸血鬼の素晴らしさについて耳から流し込まれるよりもずっと効率よく、彼らに支配されることを当然と思うようになる。

 いま、頼子が目にする者たちのなかに、彼らはいない。

 だけど、現れれば、実にシュールで悪趣味な、中世の残酷な絵画のような景色を見ることができるだろう。

 電撃を浴びたように、吸血鬼にこうべをたれ、自らを贄としてささげる。そして、彼らが去れば、またもとの日常に戻るのだ。


 これが――被膜の一枚を剥ぎ取られた世界かと、おもう。

 久遠がそばに居たときは、絶対に感じなかった悪寒が、恒常的にいまの頼子を襲っている。

 要するに、久遠の力が弱まったということだろう。だけど、本当にそれだけなのだろうか。本当に、彼女が去ってしまったから、だけが理由なのだろうか。

 重い足取りで、彼女との日々を過ごした場所を、史跡をめぐるようにして辿りながら、考える。


 遠ざかったのは、本当に彼女だけなのだろうか。

 知らないうちに、自分自身が、彼女のことを知ろうとせず、理想の彼女を自分のなかに作り出してしまったがゆえ、すれ違いを生んだのではないか。

 だって、ほら。思ったじゃないか。何も知らない、と。でも、それでもいい、と。

 その開き直りが、せんぱいを苦しめていたのなら。もし彼女が泣いていても、自分はその涙を拭おうとせず、ただ美しいと感じるだけで何もしなかったのではないか。

 そうしてくれる誰かを、彼女が欲していたのだとしたら。

 これは――自分自身の、あやまちの結果だ。


「こんな……かたちで、教えるなんて。せんぱいは、先生にはなれないですね……意地の、悪いひと……」


 無理に笑おうとしてもやっぱりだめで。

 頭上でこうもりが、せんぱいのものではないこうもりが、ギャアギャアと、嘲笑するかのようにはばたいている。


 ――頼子は、苦痛から逃げていく。

 どれほどの時間が経過したのだろう。

 その足はやがて、あのお決まりの場所に向いていた。


 学校。

 自分とせんぱいに、変化がおとずれた、最初の場所。



 校門から中に入る時、彼女は抵抗をおぼえなかった。

 それはつまり、領域が侵されているということだ。


 踏み入れる、足。下足室から、すでにやみがみちていた。

 それは、久遠の周囲に漂っていた、あの心地の良いものではない。ねっとりとまとわりつくような。湿気のある。

 頼子は、それを知っている。その感覚の正体を。

 あの、男だ。あるいは、男、「たち」。か。下腹部を撫でて、そのまま全身を這いまわるような。それが、奥の廊下に続いていて、消火栓設備の赤いランプの導きと共に、奥へ、奥へ。

 視界が斜めにぐらついていく。足元がべたべたする。血のようだ。粘性の。

 進んでいく。風の音か、木々がざわめいているのか。くぐもった笑い声のような音が通奏低音になっている。

 はやくいそごう。そこに彼女はいる。

 自傷するように。死を、待ちわびている。

「ひとりになんか、させない……させてやるもんですか」


 保健室のドアを開ける。

 果たして彼女はそこに居た。

 ベッドにいた。

 あの少年が最初に出会った時も、そんな風に、薄いカーテンの向こうで、ぼんやりとシルエットだけを浮かべていたのだろう。それは幽玄で、美しかったはずだ。

 でも、そうは思えない。吐き気がした。


 なぜならいま、久遠のベッドの周囲には、居たからだ。

 あの時の少年のように、男たちが。


 群がっていた。

 すがりつくように、シーツを引きずって、布団を剥がそうとするように。

 青ざめて、やせこけた。ぼろぼろの衣服の。しかし牙が光り、血走った眼で。ごぼごぼという呻き声をあげながら、久遠に手を伸ばして居た。

 ……大樹にからみつく、無数の折れ曲がった枝、だ。


 ――ちがう。あの子なんかじゃない。


 そう思った。もっとおぞましい何かだと。

 頼子は駆け寄った。

 男に手をかけた、引きはがそうとした。だが、強い、はがれない。こちらに見向きもしない。反発して、ぎゃくにしりもちをついてしまう。

 久遠を見る。ぞっとする。

 表情が抜け落ちている。青白く、うつろな瞳、乾いた唇――戸棚の奥にしまいこまれた、ほこりをかぶった、ビスクドール。

 ……違う、そんなのは。

 そんなのは、せんぱいがまとうたぐいの、美しさなんかじゃあ、ない。


「厭だ、離して、離してよ――せんぱいから、はなれてよ。あたしのせんぱいを、とらないでよ――」

 涙が出てくる、唇を噛んで血が出る、何度も倒れて起き上がってつかみかかる、とうとう彼らの腕のうち一本が彼女に到達して、その肌に触れようとする。あってはならない。

 そんなことあっては。せんぱいに触れるなんて。

 ――でも、だけど。

 ――あたしだって、ほとんど、触ったこと、ないのに。


 胸にあながあく。見たくない気付きたくない真っ黒な、真実のような何か。このまま、この泥臭いみっともない抵抗を続けなければ、そいつが視界に入っていきそうで。

「厭だ――厭だ……っ」


 その時だった。

 ふと、彼らの手が止まった。

 すべてが止まったと思った。

 えっ、と声が漏れる。


 薄まった障壁を打ち破って進んできた、おぞましい男たちは、ぷつりと力を失い、ばたばたと後ろに倒れていく。何の前触れもなく。

 つい後ろ足で引き下がる、足元に――死体のような、彼らだったものが。

 ……吸血鬼?

 いや、ちがう。

 久遠は意識を失い、がっくりとうなだれた。

 抱きおこしに向かう間もなく、ドアが開いた。


 赤い外套の者たちが、数名佇んでいた。

 そのうちのひとりが前に出て、口を開いた。

 布地の端から腕が見えていて、その肌のしろさは――せんぱいに、よく似ている。



「やっとみつけた。ずっとひとりで戦ってたのね――クドウ」

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