:
「空の色が。変わっていく」
その年老いたドラキュリーナは、窓の外を眺めて言った。
もっとも、見た目は若く美しいままだ。そのままで、何百年と教師を続けてきた。
遠い地で、生徒たちが何をやろうとしているのかは知っている。
「だけど、それは罪深いことよ」
自分も、何度も同じようなことを試みた。
すべて失敗に終わった後、二度とやらなかった。
得たものより失ったもののほうが大きく、気付けば自分はひどく孤独になっていたからだ。
「寝た子を起こしてはダメ……それはきっと、あなた達の居場所を、煉獄にする。きっと、棲むには不便よ」
その、わずかに潤む瞳には、諦観と、彼女たちの無謀に対する、ほんのわずかな羨望が浮かんでいた――。
◇
「どうして……どうしてそんなことを言うの、頼子……」
「だって……だって、そんなの、あたしが嫌だからです」
頼子は、共に立つ者たちのなかに、いくつもの知っている顔を見る。
その中には、あの日のライブハウスの若者たちもいた。
もう二度と、音楽を奏でることはないだろう。それを選んだのは――久遠だ。
彼女はあきらめた。自分の種族という存在に対して、そのとどのつまりに対して。
「私はドラキュリーナ。そしてドラキュリーナは、吸血鬼の派生。他に選択を知らない……従うか、従わせるか。その二つの道しか、用意されていない」
「違う、違うんです、せんぱい」
亡者の群れが迫りくる。いよいよ、ドアの手前まで濁流が押し寄せてきたと感じる。
「来た」「来たぞ」「なんとしても守るんだ」
違う顔をした同じ者たちが、互いに囁き合って手をつないで、壁になる覚悟を決めている。
殉じて奉じて、そして消えるのだ。
ドラキュリーナが吸血鬼に対して、そうしたように。
そして吸血鬼は、また闘争を続ける。自分たちの種族としての宿命に従って。
繰り返される。永劫に。
そのなかで、取るに足らない、小さな小さな無数の物語たちが、黙殺されていく。
そんなのは。
「そんなのは嫌です。厭なんです。もう、あたしやせんぱいみたいなかなしみが、溢れてほしくない」
「なら、どうしろっていうのよ――」
そこで。
壁が破られた。
「来るぞっ!」
亡者たちが、一斉に流れ込んでくる。
男たちは雄たけびをあげて、そこに向かっていった。
狂おしい宴。その騒音に呑み込まれて、頼子は、久遠から分断される。
手は繋げない。それでも伸ばす、必死に。
ある者は罵倒し、ある者は蹴りつけている。
そして、弱いものから踏みにじられている。
いまこの部屋に、煉獄が形成されていく。
声が聞こえなくなる。久遠の、せんぱいの声が――。
「どうしろというのよ、頼子っ!」
聞こえた。
頼子は見た。
久遠は泣いていた、泣き腫らしていた。
見たことがない表情。顔を真っ赤にして、鼻をすすりながら、口から泡を飛ばして、怒号していた。
「私はこれしか知らないの、これさえしていれば自分は守られるから。こわいのよ、他のことをするのが! そうしたらどんな苦しみがあるか、分からないじゃないっ!
こわい、私はこわい――私たちはずっと、こわいままなのっ!!」
その瞬間に、久遠はただの少女になっている。
こわいものをこわいと言う、ちっぽけな少女に。
頼子は安堵した。
「よかった、やっと聞けた、せんぱいの、ことば――」
その時。
頼子は、倒れた。
他の誰かの、巻き添えをくらったのかもしれない。とにかく、嫌な音がして、久遠の視界から消えたのだ。
「――頼子」
久遠はベッドから蜂起した。
知らないうちに、犬歯を剥き出しにして、本能のままに吠えて、肉の群れをかきわけながら、彼女のもとへ向かっていた。
――邪魔だ、どけ。
――あの子は、あの子は私の……。
頼子は果たしてそこに居た。
血まみれになって倒れていた。
「せん。ぱい……」
ひゅーひゅーと音がして、喉の奥がごぼごぼと言っている。
うつろな目が、抱き起す久遠をとらえている。
「しっかりして、死なないで……」
「死にませんよ、あたし……だって、せんぱいがいるんだ、もの……」
「ああ、どうしよう、どうすればいいの……私、誰を頼れば……」
「もう、あなたは……誰も頼らなくたって、いい……まわりを、みてください」
彼女は、ひとりではなかった。
彼女のために戦う、無数の者たちが居た。
そして、彼女のために散っていった、彼女たちが居た。
「もう、じゅうぶん、です。やりたいことを、やってください、せんぱい……」
「やりたいこと……」
「いまは、なんですか」
「あなたを、うしないたくない」
「だったら――ひとつじゃあ、ないですか」
頼子は、添えられた久遠の手を取って、自分の首筋にあてがった。
「あたしの。そして、みんなの血を、吸って」
「っ、馬鹿を」
「馬鹿なり、に。ない、あたまで……ひっしにかんがえました……どうですか……わかり、ますか」
久遠は、頼子の額に手をやった。
彼女の意識が流れ込んでくる。
自分が『それ』をやったあとの光景が。
「……ああ」
そこで久遠はようやく理解する。
頼子が、何を思って、自分の隣にいたのかを。
これまでの彼女の彷徨の、過程を、わけを。
――自分は、知らないままだった。知らないままでいいと思っていた。
――この子は。もうとっくに。自分なんかより、ずっと、強くなっていた。
「わかった、わかったわ、頼子。やればいいのね」
「はい、せんぱい」
「もう、何もおそれない。私は、ドラキュリーナで、クドウで、そして――……私、だ……」
「そう、だから……」
――この仕組みを、こわして。
その瞬間、久遠は頼子の首筋に噛みついて、血を吸い上げた。
彼女の黒髪がざわめいて影のように伸びて、先端が牙になって、濁流の男たち全員に突き刺さった。
それはどこまでも広がって、建物を超えて、一帯に放射された。
朝日が昇る頃。
ドラキュリーナ・クドウの吸血牙は、生命の樹のかたちになって、世界中に広がっていた。
◇
「どうすればいい」
彼らは影になって彷徨っていた。
寄る辺を失った今、彼らを支えるのは、己の自意識だけだった。
これまでそんなことは一度もなかった。
これからどうすべきかを、自分たちだけで考えねばならなかった。
ひどい孤独が、感じたことのないものが、未知が、いっせいに襲い掛かっていた。
「俺たちは、俺たちのこれからは――」
まもなく、かれらにも朝日が差し込んで、彼らの目をまぶしさで焼いた。
◇
◇
「それでね、あたし。聞いてみたんです、せんぱいの好きなやつ」
「それで、どうだったの」
二人は今日、公園に出ていた。街の中心にある、大きな公園。
子どもたちが駆けまわって、親子連れも多い。
そこには、皆が居た。カーテン越しではない、本当の日の光を浴びて、なにもおそれずに。
皆、例外なく、首筋に刻印がなされている。
でも、誰も気付かない。気付かないまま一生を終えるものが大半だし、気付いたとしても、別になんということはない。
「なんか、よくわかりませんでした。あたし、音楽の好みはかなり貧弱みたいです」
「そう」
二人は隣同士、ベンチに座っている。
周りの者たちは彼女たちを一瞥し、去っていく。
いてもいなくても、かわらないかのように。
でも、それが心地よかった。
風がそよいで、久遠の黒髪を撫でた。
病室に居る時より、よほど綺麗にその色は映えた。
「だから、あたし」
頼子は、ずいっ、と、顔を久遠に寄せた。
思わず、互いの頬が赤くなる。でも、それをおそれなかった。
「もう一回、聞こうと思うんです。だって、時間は――たっぷりあるんですから」
頼子の首筋にも、牙の痕がある。
あの日、ドラキュリーナ『クドウ』がやったことは、世界をドラキュリーナと吸血鬼、その二つをごちゃまぜにして解き放った。
その結果、誰がドラキュリーナで、誰がそうでないか分からなくなった。
でも、それこそが狙いだったわけだ。
拡散した物語は、自分たちだけで、拾われるのを待っている。
「……」
久遠は、この小さな、とてもたいせつなそんざいをいとおしく思って、存分に撫でた。
「きゃっ、くすぐったいです、せんぱい」
「いいの。私がいいって言ったもの」
「……うひゃ。せんぱい、せんぱいらしくなってきましたね」
「私らしさって、なに」
「教えませんよ」
「何よ、じゃあ、こうしてやるわ」
もう一度くすぐった。頼子はきゃっと笑った。
そのあとで、言った。
「でも、確かなこと、あります。結局、何回遠回りしても、これにたどり着くんですけど、その……」
「何、言ってみなさいよ」
「えっと。せんぱい。いや…………久遠。あたし、」
最終話 : 【愛してる】
吸血鬼の久遠せんぱい:改 緑茶 @wangd1
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます