「空の色が。変わっていく」

 その年老いたドラキュリーナは、窓の外を眺めて言った。

 もっとも、見た目は若く美しいままだ。そのままで、何百年と教師を続けてきた。

 遠い地で、生徒たちが何をやろうとしているのかは知っている。

「だけど、それは罪深いことよ」

 自分も、何度も同じようなことを試みた。

 すべて失敗に終わった後、二度とやらなかった。

 得たものより失ったもののほうが大きく、気付けば自分はひどく孤独になっていたからだ。

「寝た子を起こしてはダメ……それはきっと、あなた達の居場所を、煉獄にする。きっと、棲むには不便よ」

 その、わずかに潤む瞳には、諦観と、彼女たちの無謀に対する、ほんのわずかな羨望が浮かんでいた――。



「どうして……どうしてそんなことを言うの、頼子……」

「だって……だって、そんなの、あたしが嫌だからです」

 頼子は、共に立つ者たちのなかに、いくつもの知っている顔を見る。

 その中には、あの日のライブハウスの若者たちもいた。

 もう二度と、音楽を奏でることはないだろう。それを選んだのは――久遠だ。

 彼女はあきらめた。自分の種族という存在に対して、そのとどのつまりに対して。

 時代精神ツァイトガイストの求める限り、自分はドラキュリーナの端くれでしかないのだと。

「私はドラキュリーナ。そしてドラキュリーナは、吸血鬼の派生。他に選択を知らない……従うか、従わせるか。その二つの道しか、用意されていない」

「違う、違うんです、せんぱい」

 亡者の群れが迫りくる。いよいよ、ドアの手前まで濁流が押し寄せてきたと感じる。

「来た」「来たぞ」「なんとしても守るんだ」

 違う顔をした同じ者たちが、互いに囁き合って手をつないで、壁になる覚悟を決めている。

 殉じて奉じて、そして消えるのだ。

 ドラキュリーナが吸血鬼に対して、そうしたように。

 そして吸血鬼は、また闘争を続ける。自分たちの種族としての宿命に従って。

 繰り返される。永劫に。

 そのなかで、取るに足らない、小さな小さな無数の物語たちが、黙殺されていく。

 そんなのは。

「そんなのは嫌です。厭なんです。もう、あたしやせんぱいみたいなかなしみが、溢れてほしくない」

「なら、どうしろっていうのよ――」

 そこで。

 壁が破られた。

「来るぞっ!」

 亡者たちが、一斉に流れ込んでくる。

 男たちは雄たけびをあげて、そこに向かっていった。

 狂おしい宴。その騒音に呑み込まれて、頼子は、久遠から分断される。

 手は繋げない。それでも伸ばす、必死に。

 ある者は罵倒し、ある者は蹴りつけている。

 そして、弱いものから踏みにじられている。

 いまこの部屋に、煉獄が形成されていく。

 声が聞こえなくなる。久遠の、せんぱいの声が――。

「どうしろというのよ、頼子っ!」

 聞こえた。

 頼子は見た。

 久遠は泣いていた、泣き腫らしていた。

 見たことがない表情。顔を真っ赤にして、鼻をすすりながら、口から泡を飛ばして、怒号していた。

「私はこれしか知らないの、これさえしていれば自分は守られるから。こわいのよ、他のことをするのが! そうしたらどんな苦しみがあるか、分からないじゃないっ!

こわい、私はこわい――私たちはずっと、こわいままなのっ!!」

 その瞬間に、久遠はただの少女になっている。

 こわいものをこわいと言う、ちっぽけな少女に。

 頼子は安堵した。

「よかった、やっと聞けた、せんぱいの、ことば――」

 その時。

 頼子は、倒れた。

 他の誰かの、巻き添えをくらったのかもしれない。とにかく、嫌な音がして、久遠の視界から消えたのだ。

「――頼子」


 久遠はベッドから蜂起した。

 知らないうちに、犬歯を剥き出しにして、本能のままに吠えて、肉の群れをかきわけながら、彼女のもとへ向かっていた。

 ――邪魔だ、どけ。

 ――あの子は、あの子は私の……。


 頼子は果たしてそこに居た。

 血まみれになって倒れていた。

「せん。ぱい……」

 ひゅーひゅーと音がして、喉の奥がごぼごぼと言っている。

 うつろな目が、抱き起す久遠をとらえている。

「しっかりして、死なないで……」

「死にませんよ、あたし……だって、せんぱいがいるんだ、もの……」

「ああ、どうしよう、どうすればいいの……私、誰を頼れば……」

「もう、あなたは……誰も頼らなくたって、いい……まわりを、みてください」

 彼女は、ひとりではなかった。

 彼女のために戦う、無数の者たちが居た。

 そして、彼女のために散っていった、彼女たちが居た。

「もう、じゅうぶん、です。やりたいことを、やってください、せんぱい……」

「やりたいこと……」

「いまは、なんですか」

「あなたを、うしないたくない」

「だったら――ひとつじゃあ、ないですか」

 頼子は、添えられた久遠の手を取って、自分の首筋にあてがった。

「あたしの。そして、みんなの血を、吸って」

「っ、馬鹿を」

「馬鹿なり、に。ない、あたまで……ひっしにかんがえました……どうですか……わかり、ますか」

 久遠は、頼子の額に手をやった。

 彼女の意識が流れ込んでくる。

 自分が『それ』をやったあとの光景が。

「……ああ」

 そこで久遠はようやく理解する。

 頼子が、何を思って、自分の隣にいたのかを。

 これまでの彼女の彷徨の、過程を、わけを。


 ――自分は、知らないままだった。知らないままでいいと思っていた。

 ――この子は。もうとっくに。自分なんかより、ずっと、強くなっていた。


「わかった、わかったわ、頼子。やればいいのね」

「はい、せんぱい」

「もう、何もおそれない。私は、ドラキュリーナで、クドウで、そして――……私、だ……」

「そう、だから……」


 ――この仕組みを、こわして。


 その瞬間、久遠は頼子の首筋に噛みついて、血を吸い上げた。

 彼女の黒髪がざわめいて影のように伸びて、先端が牙になって、濁流の男たち全員に突き刺さった。

 それはどこまでも広がって、建物を超えて、一帯に放射された。

 朝日が昇る頃。


 ドラキュリーナ・クドウの吸血牙は、生命の樹のかたちになって、世界中に広がっていた。



「どうすればいい」

 彼らは影になって彷徨っていた。

 寄る辺を失った今、彼らを支えるのは、己の自意識だけだった。

 これまでそんなことは一度もなかった。

 これからどうすべきかを、自分たちだけで考えねばならなかった。

 ひどい孤独が、感じたことのないものが、未知が、いっせいに襲い掛かっていた。

「俺たちは、俺たちのこれからは――」

 まもなく、かれらにも朝日が差し込んで、彼らの目をまぶしさで焼いた。





「それでね、あたし。聞いてみたんです、せんぱいの好きなやつ」

「それで、どうだったの」


 二人は今日、公園に出ていた。街の中心にある、大きな公園。

 子どもたちが駆けまわって、親子連れも多い。

 そこには、皆が居た。カーテン越しではない、本当の日の光を浴びて、なにもおそれずに。


 皆、例外なく、首筋に刻印がなされている。

 でも、誰も気付かない。気付かないまま一生を終えるものが大半だし、気付いたとしても、別になんということはない。


「なんか、よくわかりませんでした。あたし、音楽の好みはかなり貧弱みたいです」

「そう」

 二人は隣同士、ベンチに座っている。

 周りの者たちは彼女たちを一瞥し、去っていく。

 いてもいなくても、かわらないかのように。

 でも、それが心地よかった。

 風がそよいで、久遠の黒髪を撫でた。

 病室に居る時より、よほど綺麗にその色は映えた。


「だから、あたし」

 頼子は、ずいっ、と、顔を久遠に寄せた。

 思わず、互いの頬が赤くなる。でも、それをおそれなかった。

「もう一回、聞こうと思うんです。だって、時間は――たっぷりあるんですから」

 頼子の首筋にも、牙の痕がある。


 あの日、ドラキュリーナ『クドウ』がやったことは、世界をドラキュリーナと吸血鬼、その二つをごちゃまぜにして解き放った。

 その結果、誰がドラキュリーナで、誰がそうでないか分からなくなった。

 でも、それこそが狙いだったわけだ。

 拡散した物語は、自分たちだけで、拾われるのを待っている。


「……」


 久遠は、この小さな、とてもたいせつなそんざいをいとおしく思って、存分に撫でた。

「きゃっ、くすぐったいです、せんぱい」

「いいの。私がいいって言ったもの」

「……うひゃ。せんぱい、せんぱいらしくなってきましたね」

「私らしさって、なに」

「教えませんよ」

「何よ、じゃあ、こうしてやるわ」

 もう一度くすぐった。頼子はきゃっと笑った。

 そのあとで、言った。

「でも、確かなこと、あります。結局、何回遠回りしても、これにたどり着くんですけど、その……」

「何、言ってみなさいよ」


「えっと。せんぱい。いや…………久遠。あたし、」





最終話 : 【愛してる】

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吸血鬼の久遠せんぱい:改 緑茶 @wangd1

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