第38話 そのモブ、今も逃げ続け。


 ──それは、唐突に始まった。


「あ、ごめーん、手が滑ったー」

「え、アンタそれ中身何?」

「ん? オレンジジュース」

「くふっ、アハハッ。オレンジジュース頭からとか、ベットベトじゃん、かわいそー」

「だって仕方なくない? 手が滑ったんだしー?」

「サイテー過ぎてウケんだけど」


 髪色の明るい女子数人が、下品な笑い声をあげている。

 女子バスケ部の主要メンバーである彼女らは、ある日から1人の少女にちょっかいを出すようになった。 

 初めは部活中に肩がぶつかったり、足を踏んだりと軽いものだったが、日に日にその行為はエスカレートしていった。


「てかなにそれ、新しいシューズ? 前のはどーしたのよ? あたしがあんなに可愛くデコってあげたのに」

「あれはウケたわ。虫の死骸を詰め込んだあれを可愛いって言うセンスはどうかしてると思うけど」

「はあ? 可愛いでしょ普通に。ね、あんたもそう思ったでしょ? 七瀬ちゃん?」

「…………」


 明らかに度の過ぎた嫌がらせの数々。

 いじめと称するのが相応しいその非道な行為を毎日のように受けている少女の名は──七瀬逢だった。


 きいたところによると、彼女がいじめの標的にされた理由は「先輩女子が七瀬にレギュラーを奪われたから」らしい。

 しかし、僕にはそれが建前にしかきこえなかった。

 真面目に活動している者がほとんどいないこのバスケ部に、大会メンバーに選ばれることへの拘りを抱く人間など皆無に思えたからだ。


 だから、恐らくは「ただなんとなく普段からムカついていたから」とか、そんな些細な理由なんだと思う。

 あまりに些細で一方的な難癖とも呼べる理由だからこそ、七瀬も相手にしなかったんだろう。

 しかし、その態度がかえって相手の不満を助長させてしまっていた。


「はあ、なにその眼、なんか言いたいことでもあんの?」

「……別に──ぅぐっ⁈」

「え? なに? きこえないんだけどー?」

「そりゃあんたが蹴ったからね」

「だって、ムカついたんだもん、しかたなくね?」

「アハハッ、そーかも」

「…………」


 運動部の部室が建ち並ぶ通りの1区画。

 運動部員であれば誰もが通りかかるその場所で、七瀬への蛮行は続く。

 しかし、その容赦のない愚行を止める者は1人もいない。

 大半の人間は迷惑そうに見て見ぬ振りで通り過ぎる。

 たまに立ち止まる者もいるが、そのほとんどが物珍しそう野次馬と化すだけ。

 それどころか、面白がってスマホを片手に撮影する者すら出てくる始末。


 それは、完全に見せ物と化していた。

 その場に居合わせた人間に彼女を助けるなんて思考は微塵もない。

 如何に彼女で愉しむか。

 彼らの頭にはそれしかないのだ。


「てか、七瀬ちゃん服びっしょびしょじゃん。風邪引くし、脱いだ方がいーって」

「や、やめてっ、やめてください!」

「あーめんど、抵抗すんなし。ねえ、ちょっと押さえといて」

「あいよー」


 悪魔のようなその囁きを耳にした瞬間、七瀬は最後の抵抗を見せた。

 しかし、3人がかりで拘束された彼女には、目一杯に歯を食いしばることしかできないようだった。

 それでも彼女は全力で身体を捻らせ、精一杯その拘束から逃れようとする。

 しかし、それがかえって観衆を悦ばせることとなる。

 必死の抵抗はこの上なく扇情的で、歓声すら沸かせた。

 その場の誰もが、非道の限りを尽くすその瞬間を待望していた。

 

 だからこそ、彼女の制服に手がかけられた瞬間、辺りは静寂に包まれた。

 皆一斉に息を呑み、彼女の痴態が晒されるその瞬間を今か今かと待ち望みにしていたのだ。


 ──っ⁈

 

 ちょうど、そのときだった。

 をみたのは……。


 強がりで怯えを隠しながら、それでもどこかで助けを求める眼。

 その眼が僕の眼を捉えたのは、恐らくコンマ数秒のことだったのだろう。

 しかし、僕にはそれが恐ろしく永く感じた。


 もしかしたら、彼女は僕のことを認識すらしなかったのかもしれない。

 だが、僕はその強烈な視線に囚われてしまっていた。


 痛かった、苦しかったんだ。

 縋るようなその視線が、何もしない僕を責め立てるようで。


 ……でも、僕には何もできない。

 この状況を変えることはできないし、彼女を救うなんて、そんな主人公みたいなことは、できるわけがないんだ。

 

 だから、僕は逃げた。

 ……いや、今も逃げ続けている。

 彼女から、彼女のから逃れるように。

 ずっと目を背けているんだ。


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