生徒指導室の和菓子先生はウェアダニットにしか興味がない。

黄鱗きいろ

第一問 吸血鬼の不在証明

第1話 山仲美世は呼び出される

 それは、非日常への入口。


 カーテンを締め切った暗い部屋。モニターに表示された謎の文字列。


『――吸血鬼はまだ、ここにいる』


 遠い過去からのメッセージ。


 あるいは謎かけ。あるいは命題。


 その正体を知ろうともせず――衝動のままに、彼女は実行ボタンをタップした。







 聖母子学園せいぼしがくえん高等部、生徒指導室の先生は、性格が悪いともっぱらの評判だ。


 何はなくとも生活指導担当の教員が嫌われるのは世の真理だというのに、それに付け加えて大変に口が悪い。


 口を開けば人を小馬鹿にしたような発言ばかりが飛び出るし、生徒の相談を真面目に聞いているところなんて見たことがない。全ての指導が適当で、年上の教師に敬意すら払わない。


 逆に言えば、ごく一部の治安の悪い生徒からは一定数の支持を得ている――らしい。


 そんな彼の居城である生徒指導室に私――やまなかは呼び出されていた。


 現在地は生徒指導室のドアの前。時刻は10時55分。4時限目が始まる直前の休み時間だ。


「大丈夫、大丈夫……」


 自分のつま先を見つめながら、私はぶつぶつと呟く。冷や汗が止まらない。


 私は平凡な生徒だ。成績も授業態度もそこそこだし、聖母子大学の附属高校であるこの聖母子学園高等部からの内部進学のボーダーラインもちゃんと超えている。


 ただし、私のボーダーラインの越え方は、でしかない。


 それはすなわち、この学園の一般的な基準である「一度をすれば、内部進学の道を閉ざされる」立場に私はいるということで。


 うだうだと言ってきたが要するに、今日この生徒指導室に呼び出された用件によっては、私は将来の道を一つ失うのだ。


 お守り代わりのキーホルダーが入ったブレザーの胸ポケットに軽く触れる。眼鏡を入れるために大きく作られているポケットの底で、水の生き物を模した古ぼけたキーホルダーが揺れた。


「大丈夫……バレてないはず……」


 口の中で呟きながら、私は固く閉ざされた生徒指導室のドアをにらみつける。


 無駄に電子化されたこの学園のあらゆるドアは、用事がある生徒以外の学生証では開かないようになっている。だが、わざわざ全校放送を使って名指しで呼び出されたのだから、私の学生証でも問題なくここは開くはずだ。


 それはそれとして部屋の中に入りたくないのには変わりは無い。私は学生証を握りしめて大きくため息をつく。


 こうして呼び出されてさえいなければ、次は中戸先生の数学だったのに。どうせ叱られるのなら、あの授業を受けてからにしたかったなあ。


 ほろりと涙をこぼしてしまいそうな気分に浸って現実逃避をしていると、不意にピーと電子音がして、目の前のドアのロックが解除された。


「――何してんの、早く入りなよ」


 次いで、ドアの向こうから聞こえてきたのはぶっきらぼうな男性の声。跳ねるような印象を受ける甘いテノールボイスで、俗に言うイケボというやつだった。あまり聞き覚えのない声なので、多分和菓子先生のものだろう。


「し……失礼しますっ!」


 部屋の前で躊躇っていたことを悟られていた動揺のまま、私は自然と生徒指導室のドアに手をかけていた。


 ドアノブをひねり引っ張ると、あっさりと外開きのドアは開く。その向こう側――部屋の奥の席でスマホをいじっていた人物が顔を上げ、私を視界に入れた。


「あー……名前は?」


「え?」


 まさかそんなことを聞かれるとは思わず、私はドアを開けたままの姿勢で硬直する。背が低くて不機嫌そうなその男性――和菓子先生は、そんな私を眺めた後、ため息交じりに繰り返した。


「ほら、クラスと出席番号と名前。早く」


「えっ、あ、はい! 2年B組40番のやまなかです!」


『――ユーザー認証に成功しました』


「え?」


 和菓子先生の手元から電子音声が響く。私がそれを聞き取ったことを察したのか、先生は派手な舌打ちをした。


「何でもないよ。ほら早く入ってドア閉めて。クーラーの冷気が逃げるでしょ」


「はあ」


 生返事をしながらも私は生徒指導室に足を踏み入れる。


 初めて入る生徒指導室はという言葉がふさわしい有様だった。


 生徒から没収したと思われる雑誌や漫画は棚の中に積み上がり、一昔前のゲーム機やそのカセットがその隣にずらりと並んでいる。


 かと思えば、奥の棚には小難しい本がぎっしりと詰まっており、まるでそこだけ図書館の一角のようだ。


 部屋の奥には和菓子先生の事務机があり、そこには薄型のモニターが四つ、机上に設置されている。そして先生の机の手前には、生徒との面談用なのか、古ぼけた二つのソファと机が置いてあった。


「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」


「へ?」


 和菓子先生は自分の席から立ち上がると、棚から小洒落たティーカップを二つ取り出し、その片方にコーヒーメーカーからコーヒーを注いだ。


 自動化はされているがかなり本格的なもののようで、挽く前のコーヒー豆がコーヒーメーカーの隣で瓶詰めにされている。


 それを眺めているうちに、先生はカップの中のコーヒーに砂糖とミルクをぼちゃぼちゃと入れ始めていた。あれではせっかくコーヒーメーカーで淹れた味わいもへったくれもないと思うのだが、あれは自分用なのだろうか。そうであってほしい。


 満足がいくまでコーヒーの苦みを薄めた後、和菓子先生は私に目を向けた。


「ほら、どっち」


 どうやらコーヒーか紅茶かどちらか選ばなければ話が進まないらしい。私はいまいちつかみ所のない先生を警戒しながら、一応答えた。


「じゃあ……紅茶で?」


「ん、わかった」


 簡潔に返事をすると、和菓子先生は戸棚の下に隠してあった冷蔵庫の扉を開けた。


 なんで生徒指導室に冷蔵庫が……。まさかここに住み着いているわけじゃ……?


 そんな疑念をもって彼を見ていると、先生は冷蔵庫の扉部分から、紙パックのミルクティーを取り出した。学内の自販機でも売っている450mlのあの小さな紙パックの紅茶だ。


 本来なら細いストローを刺してそのまま飲むたぐいのそれの口を雑に開けると、先生はその中身を私のティーカップに適当に注いだ。そして、それ以上手を加えることもティーソーサーにも乗せることもせずに、お洒落なティーカップはソファの前の机に置かれる。


 お茶を出してもらう側で文句を言うのもあれだが、既製品直注ぎはあまりにも風情がなさすぎやしないか。


 自分用のほうだけは豆から淹れるコーヒーメーカーを使っているのもあって、思わずもの言いたげな表情になってしまう。


 そんな私を、和菓子先生はぎろりとにらみつけた。


「何? 文句でもあるの?」


「い、いえいえ、ないですはい……」


「あ、そ。じゃあそこ座りなよ」


 勧められるままにソファに腰掛けると、経年劣化で緩んだスプリングがぎしりと音を立てた。お世辞にも座り心地がいいとは言えない。


 ……落ち着かない。いや、これから叱責を受けるのだからリラックスしている場合ではないのだが。


 所在なさで挙動不審気味の私の前に、先生は今度は一つのおまんじゅうを置いた。薄くて乾いた皮に包まれた、どこにでも売っていそうなおまんじゅうだ。


 先生は私の向かいのソファにどかっと座ると、自分の分のおまんじゅうの包みを開いて食べ始めた。


 無言のまま、もさもさと音を立てておまんじゅうを頬張る先生。私はどうするべきか迷った末に、自分もおまんじゅうを食べることにした。


 自分の分として渡されたのだから、食べてもお叱りはないはず。あと、お昼前だから普通にお腹も空いてるし。


 よく分からない自己弁護を並べながら、私はおまんじゅうの包み紙を開けて、口に運ぶ。


 おまんじゅうに噛みつくと、あんこの甘さが鼻の奥の方へと広がり、同時に薄皮のパサつきが口の中を襲った。


 もごもごと咀嚼しながら、頬の内側や顎の上にへばりついた薄皮を剥がそうと試行錯誤する。口の中に手を入れてなんとかしてしまいたい衝動には駆られたが、さすがにこれから叱ってくるであろう先生の前でそれをやるのははばかられた。


 結果として私は、舌を使って口の内側にしっかりと張り付いてしまった薄皮を剥がそうと一人百面相を繰り広げていたわけだが、ふと顔を上げると、和菓子先生が意地悪な笑みでこちらを眺めていることに気がついた。


 もしかしてこれを見越して、先生はこの食べにくいおまんじゅうを――!?


 そんな被害妄想に等しい思いに駆られていると、先生はにやついた表情のままこちらをのぞき込んできた。


「なーに? 言いたいことがあるなら言ってみなよ」


 からかうように言う和菓子先生に、私はひとしきり口をもごもごとさせた後、ミルクティーを一口飲んでわざとらしい笑顔を向けてやった。


「とーっても美味しいですね、このおまんじゅう!」


 そこまで言ってしまってから、私はハッと正気に戻る。


 しまった。つい挑発に乗ってしまった。いや、今のはからかってきた先生のせいだ。私は悪くない。


 焦る私に対して、和菓子先生は意表を突かれた顔をした後、ちらりと壁の時計を見た。


「ん、そろそろ時間か」


「え?」


 直後、4時限目の授業の開始を告げるチャイムが鳴り響く。幾重にも反響しながら校舎中に響き渡るチャイムの中で、和菓子先生は悪戯っぽく笑っていた。


「じゃあ、話を始めようか。この学校にかつていた、とびっきりの問題児の話を」

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