第31話 吸血鬼は証明される

 瞬間、吐き出しかけたため息を飲み込んだのは、寄坂櫛奈を名乗った彼が、不安定な足場に立っていることに気付いたからだ。


 足場の下に広がっているのは、せぼすい自慢の大水槽だ。不用意に刺激をすれば、彼はあっさりと自分の身をそこに投げ出してしまうだろう。


 目の前の彼と視線が交わる。


 寄坂櫛奈。並び替えれば、暮吉最中。


 ありえない学生番号に気付いてしまえば、その正体はすぐにわかった。ここまで指摘しなかったのは、彼がそれを使ってこちらに勝負を仕掛けてきた時に、そんなことはお見通しだとあざ笑ってやるためだ。


 そして今、寄坂櫛奈は目の前にいる。解き明かしてみせろと言わんばかりの表情で。


 僕はゆっくりと瞬きをすると、彼に歩み寄り、数歩手前で立ち止まった。


 近くに立つとよくわかるが、本当によくできたホログラムだ。ここまで手の込んだイタズラをする天才も世の中にそうはいないだろう。


「……どうしてここがわかったか聞いてもいい?」


 聞き慣れた声で、見慣れない顔の彼は話す。そのギャップに奇妙な気分になりながら、僕は口を開いた。


「大人をなめないでよね。君は学園の配電システムをハックしたけれど、ダウンはさせなかった。だったらそこに意図があると考えるのは普通でしょ。それで見つけたを総当たりしようとしたら、一発目で当たりを引いただけ。これで満足?」


 つい、いつもの癖でペラペラと喋ってしまった後、悪手だったかと一瞬後悔する。だが、自分は人を馬鹿にしないと会話ができない性格破綻者であるので、改めようとしてもどうにもならない。


 気分を害しただろうかと、柄にも無く相手の様子をうかがうと、彼はむしろおかしそうに笑っていた。


「ふふ。総当たりとかミステリーでもなんでもないじゃん」


「ご期待に添えず申し訳ないね。結果的にウェアダニットは解明された。それでいいじゃないか」


 僕の言葉に、彼は一瞬沈黙した。


「……まだウェアダニット以外はどうでもいいって言うの?」


 不穏な響きをもって彼は言う。僕はここで押すべきか引くべきかと一瞬悩み――いつも通りに無遠慮に彼の引いた心理的一線を踏み越えた。


「僕さあ、ホワイダニットって嫌いなんだよね」


 問いかけからほんの少しズレた返答。意表を突かれた彼は、目をぱちくりとさせる。


 その隙を逃さずに、僕は言葉をねじ込んだ。


「ホワイダニットだなんてものが成立するのは、単純化された虚構の世界だけだよ。現実の人間の行動の理由が、一つだけなわけないじゃないか。人間ってやつはね、時や場所や場合でそれぞれ無数の行動理由を持ってるんだよ。それを単純化して、だなんてもっともらしい名前をつけて、それを根拠に推理をしようだなんて傲慢極まりないと思わない?」


 つらつらと並べるもっともらしい論理に、彼は目を白黒とさせる。主導権を譲ってやるつもりはない。僕は勢いのまま口を動かした。


「いわゆるペルソナってやつだよ。どんな人間でも場合によって人格を使い分けてるし、それぞれで行動理由は違っている。それは君がよくわかってることなんじゃないの? やたらとたくさんの仮面ペルソナを持ってるならね」


 暮吉最中。


 彼が一番呼んでほしいであろう名前で、彼を呼ぶ。だがその一言は、彼を引き戻すにはあと一歩足りなかった。


 ふうと息を吐き、彼は芝居がかって言う。


「何のこと? 僕は寄坂櫛奈だよ。この一連の騒動の首謀者で、先生が不在を証明すべき吸血鬼だ」


「……あっそ、強情なことで」


 どうやら彼の思う正式な手順を踏まなければ、彼は納得してくれるつもりがないらしい。僕は悟られないように小さくため息をついてから確認した。


「僕は、ホワイダニットってやつが嫌いだ。だけど吸血鬼の不在を証明するにはそれが必要みたいだから、便宜上、仕方なく、君の動機を決めつけて解明する。嫌だって言っても止めてやらない。それでいい?」


 自己弁護のような言葉の波を受け止め、彼は微笑みながら答えた。


「いいよ。僕は元々そのつもりだったから」


 その一言に、僕は彼の動機の――少なくとも一側面の正体を確信した。


 彼はなぜ、吸血鬼の不在証明というゲームを行う必要があったのか。どうしてあのキーホルダーを生徒指導室に置いていったのか。それは――


 僕は彼を正面から見据え、逃がさないようにまっすぐ言葉を投げかけた。


「暮吉最中が僕に吸血鬼の不在証明を持ちかけたのは――僕に、吸血鬼という存在をだ」


 断定的な強い言葉を、目の前の生徒に叩きつける。彼は驚きも嘆きもせず、ただ諦めたような表情で答えた。


。正解だよ、和菓子先生」


 ――それは、逆転的な論理だ。


 勝負を挑んだのは、勝って何かを得るためではなく、負けて何かを失うため。真相はたったそれだけの単純なものだった。


「この数ヶ月、君は吸血鬼という存在を形作ってきた。噂を流し、イタズラを起こし、架空の生徒を作って彼を吸血鬼ということにした。全ては、暮吉最中という人間から、子供じみてわがままで、イタズラ好きで、未熟で、生意気な部分を切り離して――殺してしまうために」


 一連の事件は、暮吉最中にとって一種の通過儀礼だった。


 大人に望まれるまま『いい子』を演じる暮吉最中が、フラストレーションのはけ口として作ったペルソナを殺し、子供を卒業して大人になるための儀式。


 馬鹿馬鹿しい、感傷的な、だけど本人にとっては命を賭けるほど重大な決別の象徴。


 自分自身では割り切れなかったその部分を、教師である僕に殺させようとした。


「……そこまでわかっちゃってるんだ」


 儚く笑いながら彼はぽつりと言う。そして、こちらに一歩だけ歩み寄ってきた。


「そこまでわかってるなら、吸血鬼の不在証明の方法もわかるよね、せんせ」


「……キーホルダーの鏡でしょ」


 生徒指導室にこれ見よがしに置き去りにされたキーホルダー。これはいわば吸血鬼を殺すための銀の弾丸だ。彼を鏡に映せば、ホログラムで作った吸血鬼の正体は暴かれ、残るのは幼さを切り捨てて大人になった暮吉最中だけ。


「せんせ、僕さ。来月海外に行くんだって」


 泣くのを堪えているような歪んだ声で彼は言う。僕は黙ってそれを聞いていた。


「事務所の意向で、これからは海外を拠点にやっていくんだって。俳優もやるから役作りのために髪も切られちゃってさ……」


 ぽたり、と彼の足下にしずくが落ちる。ホログラムの仮面の下で、暮吉最中が泣いている。


「せんせが、折角褒めてくれた髪なのになぁ……」


 何度もしゃくり上げながら彼は言う。


 そこに込められた感傷に僕は言及しない。向き合ってやる気もない。僕が――裳末杏太郎ができるのは、ただの一人の大人として、彼の勘違いを正してやることだけだ。


「はぁ……馬っ鹿じゃないの?」


 冷たく放たれた僕の声に、彼はきょとんと顔を上げる。僕はそんな彼の悲嘆を鼻で笑った。


「そもそも子供じみた自分を殺す必要なんてないんだよ。僕を見てみなよ。そこらの学生よりも子供っぽくて未熟な精神構造をしてる自覚があるよ? そんな僕の前でよくもまあ子供の自分から卒業しようだなんて言えるね。僕への当てつけのつもり?」


「えっ、え……?」


 完全に予想外のところからの一撃だったのか、彼は目に見えて狼狽している。僕は特大のため息をついた。


「いい? 君より一足先に大人をやってる僕が教えてあげる。大人になるってことはね、いい子になるってことじゃないんだよ。自分の我が儘を通せるぐらいに力を持って、自分が思う通りにエゴイスティックに、自分の人生を生きることなんだよ。それを君は何? 駆け出しのミュージシャンの歌詞みたいに大人になるってことに絶望しちゃってさ。世界の終わりでも迎えたみたいな顔してるよ、今の君は」


 話しながら、さらに一歩、彼との距離を詰める。


「そんなに吸血鬼を殺してほしいなら殺してあげるよ。『暮吉最中は吸血鬼である』。これで満足?」


 突然心臓をつかみ出されたような無防備な表情で、彼はその言葉を受け止める。その顔が再び世界への絶望に染まる前に、僕は次の言葉を叩きつけた。


「ついでにこの僕が証明してあげるよ。『吸血鬼は実在した。なぜなら僕が殺したから。実在しないものは殺せない』。ほら、小学生でもわかる簡単な論理だよ。お気に召した?」


 僕はそこで大きく息を吸うと、まだ困惑している彼に、僕にしては優しく言葉を投げかけた。


「いいじゃないか。吸血鬼が実在したって。もし今の君が幼い吸血鬼を受け入れられないなら、この学園に置いていけばいい。幸いにもこの学園には君の撒いた吸血鬼の噂が蔓延してる。少し細工をすればきっとこの学園から吸血鬼が消えることはないよ。もっともそれは、『誰彼モカ』でもなく、『寄坂櫛奈』でもなく、『暮吉最中』にしかできないことだけどね」


 偉そうにフンと鼻を鳴らしてやると、彼はハッと正気に戻ったような顔をして僕を見た。


 こんな青春ごっこなんて柄でもない。


 しみじみそう思いつつ、そんな彼を僕は促す。


「ほら。君はどこの誰なの? ちゃんと答えなよ」


 彼は目を見開き、躊躇うように口を開け閉めした後、ぐしゃりと顔を歪めて答えた。


「お……俺は――、2年B組7番、暮吉最中!」




『ユーザー認証に成功しました』




 場違いな合成音声が流れ、最中はピタリと動きを止める。僕は舌打ちをした。


「あー……君の生体認証で配電システムに入ろうとしてたの忘れてた。締まらないなあ、もう一回やり直しておく?」


 ついさっきまでやっていた青春ドラマのような展開が急に恥ずかしくなってきて、僕は早口でまくし立てる。最中はそんな僕を見て、ぷっと噴き出すと、腹を抱えて笑い出した。


「ふふ、あはは! 何それ、どうせなら最後まで格好よく決めてよ、せんせ」


「うるさいな。そんなことより、そこ危ないからさっさとこっちに来なよ」


「……うん、今行くよ」


 吹っ切れた顔で最中は一歩、こちらに近づく。その時――彼の足は滑り、足場の上にいた最中の体は大きく傾いた。


「へ……?」


 間抜けな声を上げて、最中の体は大水槽に落ちていく。僕は咄嗟に大声を出しながら彼に手を伸ばした。


「クソガキ!」


 間一髪のところで彼の手を捕まえる。


 その拍子に、彼のかけていた眼鏡が弾かれるようにして顔から落ち、ぽちゃんという水音とともに大水槽に沈んでいく。そこに投影されていた寄坂櫛奈の姿は水底へと遠ざかり――エラーを起こしたのか途中でふっとかき消えた。


 それを感傷的な気分で見送った後、僕は彼を安全なところまで引っ張っていって険しい顔を作ってにらみつけた。


「暮吉最中。君、この後、生徒指導室ね」


 言ってしまってから、まるで出会ったときのリフレインのようだと気づき、その青臭さにさらに機嫌は降下する。


 暮吉最中は、そんな僕を見てふっと微笑んだ。


「せんせ。今日は俺、紅茶じゃなくてコーヒーがいいな」

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