第7話 空鯨は宙に尾びれをなびかせる

 呆然と呟く私の声など意にも介さず、鯨は頭上を通り過ぎていく。その巨体がかき分けた波の余韻を口を開けて眺めていると、奈月が声をかけてきた。


「何? アンタ、クジラタイム見るの初めて?」


「クジラタイム?」


 なんだかポップなそのネーミングを聞き返すと、奈月は軽く息を吐いた。


「あのねえ、この水族館のメインイベントみたいなもんでしょうが。定期的にああして鯨を遊泳させて生態系を作ってるの!」


「へえー」


 鯨が近づくと魚たちは逃げ惑ったり、逆におこぼれを狙って近づいていったりしている。よくわからないが、水槽全体のパワーバランスがかき乱されていることだけは理解できた。


 その様子から目を離せずにいる私に、奈月は肩をすくめながら言う。


「そんなに気に入ったならアンタはあの鯨をテーマにする? 多分書きやすいんじゃない?」


「えっ、いいの?」


「私はイソギンチャク周辺の環境について書くから。他の班員にもかぶらないように伝えておくわね」


 そう言うと、奈月はさっさと自分の目当てのゾーンに行ってしまった。


 ――直後、何か低くて長い音が、まるで洞窟の中で叫んだ声のようにぼんやりとあたりに反響した。振り向くと、水槽の中を周遊していた鯨がゆっくりと水槽の奥へと消えていくところだった。


 住処へと帰るのだろうか。賢い鯨もいたものだなあ。


 その後ろ姿が完全に見えなくなるまで見送り、そこでようやく私は、一枚も鯨の写真を撮っていないことに気がついた。


「ああー……」


 これではレポートに添付する資料が足りずに、文字数を埋めることができなさそうだ。ただでさえ自分は、レポート作成が多少苦手であるので。


 仕方ない。別のテーマを探すか。


 気を取り直すと、私は皆のいる場所へと歩き出した。




 その後、無事に調べ物を終えた私たちの班は、順路に従って水族館の出口に向かっていた。


「で、結局アンタは何のテーマにしたの?」


「んー、岩陰の生き物たちみたいな感じにしよっかなって。とにかくたくさん種類を並べて文字数を埋める作戦!」


「アンタ、そういう姑息な手ばっかり上達していくわね……」


「えへへ」


 なんだか褒められた気がした私は照れくさくなって頭をかく。奈月はひとつため息をついた。


「ほら、だったらミュージアムショップでも寄る? 簡単な魚の図鑑でも買ったら役に立つんじゃない?」


「うん、それいいかも! みんな寄ってもいい?」


 私の呼びかけに否は返ってこなかった。むしろ、佐夜はノリノリのようだ。


「ふふふ、モカ様のグッズとかあったらどうしよう!」


「ハイハイ、やっぱり大ファンなんじゃない」


 小走りでショップに向かう佐夜の後ろを、私たちはあきれ気味についていく。ミュージアムショップの手前にいたスタッフが、はしゃぐ佐夜をぎろりとにらみつけた。


「館内では、走らないでください」


「う、すみません……」


「もう何やってんのよ、すみません失礼します」


 案の定スタッフに掴まっていた佐夜を回収し、私たちは出口直前にあるミュージアムショップへと足を踏み入れた。


 途端に感じたのは妙な既視感だ。ショップの大きな棚に並べられている鯨と、赤いクラゲのグッズたち。どことなく見覚えのあるその姿の正体を私は考え込み、はたと思い至る。


「あっ、キーホルダーの……!」


 私は最近手に入れた古びたキーホルダー――和菓子先生の置き土産であるICチップ入りのそれをポケットから取り出した。塗装がはげてはいるが、頭に二つ突起がついたクラゲという特徴は、目の前のグッズと一致している。


「先生、ここで買ったんだ……」


 そうすると、もしかしたら和菓子先生――かつてイタズラ少年だった暮吉最中という人物は、この水族館に何か思い入れがあるのかもしれない。何しろ、わざわざキーホルダーを改造してまで、自分の置き土産を入れる媒体に選んだのだから。


「……ホワイダニット、か」


 吸血鬼の犯行動機。和菓子先生はそれを解き明かすように言った。だけど、何を手がかりにすればいいのかも分からない現状だ。


「また近いうちに生徒指導室に行ってみようかな」


 ぽつりと呟きながら、私はキーホルダーをポケットにしまい込む。そして、魚の図鑑がないかショップ内を物色しはじめたのだった。


 十分後、私が買ったのは、魚の写真がずらりと載った下敷きだった。周囲には「アンタそれ小学生用の……」「お寿司屋さんみたいでかわいいねー」と概ね好評だ。


 うん、普段使いも視野に入れようかな。


 そう思いながら私は、出口のセンサーにタッチするために学生証をポケットから取り出す。すると、同じポケットに入れてあった例のキーホルダーがそれに巻き込まれてポケットから顔を覗かせた。


「うわっ、とと」


 落ちそうになったそれを慌てて私は右手でキャッチする。幸いにもキーホルダーは床に落ちることなく、手の中に収まった。


「早くしなさいよー。置いてくわよー?」


「あ、うん! 今行く!」


 先に行った奈月に急かされ、私は退場口の機械に右手の学生証をタッチさせる。ピッと音がして、無事にゲートは開いた。


「もう、無事に帰るまでが班行動なんだからしっかりしなさいよね」


「えへへ、ごめんごめん」


 笑いながら私たちは「せぼすい」の建物から出る。その瞬間、突然大きな風が吹き抜け、私は思わず目を閉じた。


 風は私の髪を巻き上げ、ミュージアムショップの袋を揺らす。私は風で乱れる髪を手で押さえながら、ゆっくりと目を開いて何気なく空を見る。


 ――真っ青な空に、鯨が泳いでいた。


「……え?」


 胸びれを悠然と動かし、尾びれで宙を蹴って、鯨はゆっくりと空を遊泳している。見間違いでなければ、水族館の大水槽にいた鯨と同じ鯨のように見える。


 まさか、鯨が水槽から抜け出して空を泳いでいる……?


 唖然と空を見上げることしかできない私に、先に歩いて行ってしまっていた奈月が声を張り上げる。


「ちょっと美世、何してんのー! 本当に置いてくわよー!」


「え、で、でもあの鯨が……!」


「はあ? 鯨?」


 風で乱れた髪を手で整えながら、怪訝そうに奈月は言う。私は慌てて空を指さしながらもう一度、鯨へと目を向けた。


「ほら、あそこに――!」


 しかし、そこにいたはずの鯨の姿は忽然と消え失せていた。


「……あれ?」


 間抜けな声とともに空を見上げて固まる私に、仕方なさそうに奈月は近づいてきた。


「歩きながら夢でも見たの? 鯨なんてどこにもいないじゃない」


「え、うーん、あれ?」


「白昼夢ってやつよ。ほら、そんなことより学校に戻るわよ?」


 そう促され、私は奈月に視線を戻す。するとそこにいたのは――まるで映画のプリンセスのように体の周囲に綺麗な小魚を従わせた奈月の姿だった。


「え、えええーーっ!?」

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