第5話 飼い犬・2

 私の首に牙を――ルドルフのその行動の意味を理解した私は、持っていたヘアブラシで咄嗟にその口元を殴り抜けた。


「――っ」

 

 私はルドルフが怯んだ隙を縫ってベッドの天蓋の上へ駆け上る。より優位な高い位置で、形勢を立て直す。身が総毛立ち、手に汗が滲んだ。何故だか息すら上手く出来ず、呼吸が整わない。


「……お嬢のそんな表情初めて見たな。顔が真っ赤だよ」


 口の端に血を滲ませながら、足元でルドルフが微笑む。しかし、その目はまだ血走ったままで、息遣いも荒い。まだ攻勢を緩めるつもりはないらしい。


「お嬢はネコ型だもんね。首、特に弱いでしょう?」


 トントン、とルドルフは自分の首筋を指で叩いた。

 そう言われて、今の自分の姿勢に気がつく。私は天蓋の支柱の下にいるルドルフへ向き合いながらも、両手で自分のうなじを守るようにうずくまっていた。

 前世の世界では、ネコ科の動物はマウントや性行為において相手の首を噛む習性があった。もちろん前世の世界で創作されたこの世界の獣人にも、その習性にまつわる設定がされている。『ネコ型』と呼ばれるネコ科由来の獣人にとっては、首が性感帯の一部なのだ。

 創作の世界なんですもの、何でもありね。

 話すらできない私に対し、ルドルフには余裕があった。


「お嬢の元の世界とやらにはドウブツはいたけどジュウジンはいなかったって言うけどさ、お嬢もこの世界ではジュウジンなんだからさ」


 いつもと変わらないそのヘラヘラとした口調が、気持ち悪い。

 あらゆる生物にとって首は急所だ。だから首を噛ませるということは、相手に心を許していることになる。だから、この世界の獣人たちにとって首を噛むことは、オメガバースよろしく番になることを意味している。――という設定だ。

 つまり、ルドルフがしようとしているのは。


「……お前、自分がしていることを、分かっていて?」


 息も絶え絶えに、一縷の望みをかけてルドルフに問う。

 

「もちろんだよ。お嬢と番おうとしているだけ。こんなタイミングになるとは思ってなかったけど。お嬢ってば性悪だけどロマンチストだから」


 ――こいつは、私を自分のモノにしようとしている。

 ルドルフがにこやかに口に出す言葉がゾッとさせてくる。安全圏だと思っていた異性として見ていない相手に好意や性欲を向けられるのがどんなに気持ち悪いか。

 私からすれば、手酷い裏切りだ。駄犬だ駄犬だと甘く見ていた。しかしこれほどの駄犬だとは思っていなかった。飼い犬に手を噛まれる、とはこのことを言うのだろう。

 うなじを守る手に、自分でも力が入ったの分かった。


「お嬢が俺のことを下に見てるのも知ってたし、男として見てくれてないのは知ってたよ。そんなことはどうでも良かった。でも、俺以外の誰かと番うのは、絶対に許さない。だってお嬢は俺の『運命の番』なんだから」


 ほらおいで、と腕を伸ばしてくる。私はその手から必死に逃れ、ルドルフから距離を取る。


「お前との結婚なんて、お父様やお母様が許すわけないじゃない」

「旦那様から許可は貰ってるよ。今後弟君が生まれない場合、お嬢は女性相続人になるからね。そうなればライオネルとの婚約も解消される。そしたら俺がお嬢の番になっていいって」

「なんですって⁉︎」


 いつもはスカートの中に隠している尻尾が思わず飛び出て、天蓋ベッドの天板を音を立てて叩いた。自分の意思を介さない結婚の話に怒りで目の前が赤くなる。しかし、それでもどこかで冷静に受け止めている自分もいる。

 なるほど、犬は犬で外堀を埋めているってことね。私が学園への入学で手放した事業をルドルフは受け持っている。ここ一年、商会の運営や領地経営などでお父様と共にいることも多かった。その間にお父様を陥落したってわけなのね。

 ライオネルとの婚約の時もお父様は勝手に話を進めていた。私を本気で得たいならお父様と話をつけるのが一番早い、とルドルフはそれを見て学習していたに違いない。まさか男同士で話をつけていたなんて。これだから男性中心の貴族社会は。

 それにしても、ルドルフは褒めてあげたいくらいは上手く立ち回っている。流石は私の右腕の男だわ。……それでも、私はルドルフと番うだなんて考えられないけれど。

 でも、だいぶ落ち着いてきた。頭が回る。うなじを掴む手を離し、自由にする。まずはこの状況からの脱出。出口は、窓か部屋の扉。駄犬に察知されないように、そちらを見ずに考えを巡らす。まだ逃げようはある。ルドルフの隙を突くしかない。

 膠着する中、ルドルフは劣勢の位置に立ちながらもまだ余裕を崩さない。しかし、口元の血を拭ったルドルフが自分の手を見た後、突然いつもの調子に戻った。


「お嬢! 怪我したんじゃない?」

「え?」

「ほら、手。血が出てない?」


 つい手の平を見ると、血が出ていた。鋭いもので切り裂かれたような傷がついている。


「痛……っ」


 いつの間に、と思った瞬間、じくじくと滲むような痛みに気がついた。ルドルフの急襲で脳内物質が出ていたのかもしれない。今まで全然気がつかなかった。

 

「ごめんね、お嬢。俺の牙で切ったみたいだね」

「なっ!?」


 いつの間にかルドルフが横にいて、一緒になって私の手を覗き込んでいる。

 しまった!

 逃げようとするが、尻尾の付け根から掴まれる。私はその腰が抜けそうな感覚に、天蓋から落ちそうになった。背骨を突き抜けるような感覚に、唖然とする。


「ああ、ごめんね」


 ルドルフは尻尾から手を離し、後ろから私をぎゅっと抱きしめた。後ろから回された腕に、怪我をしていない手で爪を立てて抵抗する。ばりばりと音を立てて暴れるが、ルドルフが手を離すことはない。


「もう大丈夫だから、逃げなくてもいいよ」


 何を言う、と反論しようとする私をルドルフは優しく抱き上げ、易々と下に降りた。

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