第40話 匂い・2

「何よそれ。どういうこと?」


 私は鼻で笑う。しかし、家政婦長は皮肉を言っても冗談など言うタイプじゃない。私はその違和感に気がつき、湯船の中から家政婦長の背中を見る。


「申し上げおりませんでしたが、お医者様から以前、お嬢様はフェロモンを嗅ぎ取る機能がひどく弱いと言われておりました。おそらく子どもの時に患われた際の高熱のせいだと」

「まさか」


 私は家政婦長の言葉に戸惑う。鼻が悪いだとかはよく言われるが、医者に診断されたというような話は聞いていない。


「普通なら成長とともに、大体は十歳やそこらになると自分以外の匂いが分かるようになるのです。その兆候がお嬢様にはございませんでしたから。それで診ていただいたのです」


 お父様たちが箝口令でも出していたのかしら。いえ、でも昔勉強を見てもらっていたフクロウの獣人に似たようなことを言われたような。家政婦長の言う通り、前世を思い出した時、幼い身体にしてはかなり高い知恵熱を出した。だから不調が残っていてもおかしくはないけれど。それなら何で今更。


「理由はわかりませんが、今になって治ったのです。それで、急に匂いを感じ取るようになって……その、過剰反応を起こされたのかと」


 それはつまり、あれは急に大量のフェロモンによる発作で、もしまた同じような状況になればあれが起こるってこと? それにさっきの説明。直接的な言葉を使わなかったけれど、性的な成熟を思わせるような物言い。まるでオメガバースの発情期ヒートじゃない。

 二重にぞっとする。


「それは、つまり、私が誰かの匂いで発情を誘発されたってこと?」

「お嬢様、はしたのうございます。匂いにあてられて、めまいを感じられただけです」

「でも、そういうことでしょう?」

「大丈夫ですよ。よくあることです。きっとすぐに慣れますから。昔から、匂いに酔ってめまいを起こしたり気絶したりするのは貴婦人の証だとされていました。匂いに酔ったふりをして気になる相手から声をかけさせたりする方もいます。介抱がきっかけでご結婚する方も多いのですよ」


 前世でも貴族の女性はめまいを起こすものだったし、気にしていなかった。私がこういう生々しい話を聞かなかったのは、ヴァイパーが言う通り、私がこれでも箱入りの侯爵令嬢だからだろう。

 そういえば『おりおり』って、成人向けのレートがついたゲームだったわ。

 番を探すには相手の匂いを嗅ぎ取る必要があるとどこかで聞いた気がする。それは現実的に考えれば、獣の発情期のようにフェロモンを出して相手を誘惑するってことなのね。前々から何かと匂いについてはあまりに獣じみているとは思っていた。とはいえ、これはどうも許容し難い。

 ああ、だから今日起きてから部屋に鍵をかけろとか、共有部にある風呂を使わせなかったりだとか、お風呂にもこうやって付き添ったりしているのね。下手に発情して、誰かに襲われでもしたら困るから。

 じゃあ、アスピスのあの行動は。ネックコルセットの試作品をテストした時のルドルフを臭いとヴァイパーが怒ったのは。セレナや殿下が私についたルドルフの匂いについて言及したのは。そこまで考えて、私は奇声をあげそうになり、お湯に沈んだ。

 もしみなが言うようにルドルフが私の『運命』だとしたら、どうしたらいいの? その理論で言うなら、次にルドルフに会ったら私はまた発作を起こすってことでしょう? それにアスピスは? ヴァイパーは? あの甘い匂いがふたりの匂いだとしたら。匂いに当てられた私のせいなのに、アスピスに次に会った時にどんな顔して会えばいいのよ!

 考えているうちに息が苦しくなり、お湯から顔を出す。息を整えながら先ほどから静かな家政婦長に視線を向けると、その肩が震えているのが見えた。


「ちょっと待って。何で貴女が泣いているの?」


 驚き、湯船から上がる。タオルに身を包み、その顔を正面から見ると、家政婦長が顔をさっと隠した。


「い、いえ。大丈夫です。それより、ちゃんと服をお召しになってください。また風邪を引かれたら……また鼻がきかなくなったりしたら、困ります」


 そう言うと、家政婦長はわっと泣き出してしまった。とりあえず用意されていた新しい夜着に腕を通す。しばらくすると、落ち着いたのか、家政婦長は顔を上げた。涙をはらはらと溢してはいるが、予想に反してその顔は嬉しそうだった。


「本当に、本当に……良かったです。私たちは、ヘビ型のことをまるで知らないまま輿入れされる奥様についてこの屋敷に参りました。お世話をしていたのに、お嬢様に風邪を引かせてしまって……大事な鼻を……そう後悔ばかりしてきましたから」


 自慢の毛並みを濡らしながら、家政婦長は声を震わせる。


「奥様は『運命の番』である旦那様に会えて、本当に幸せで。それなのにお嬢様からはその機会を奪ってしまった……。そう思っておりました。それでもお嬢様はあの子を見つけましたが……それでも鼻がきかなければ、『運命』の本当の喜びを知ることなどありません」


 家政婦長の言葉に、今までの点と点が繋がる。

 前世を思い出した知恵熱以来、お父様お母様を筆頭に周りの者が異常に私の体調に気を使うようになった。私にお父様のヘビ型が混ざっているから寒さに弱い。特にヘビでは無いからこそネコ型の獣人たちは私に気を使ってくれていた。この家政婦長は特に、私の侍女だった頃から何かにつけ厚着をさせようとしてきた。

 でも、きっとそれは自分のせいで私が酷い風邪を患った、そのせいで鼻がおかしくなったと思っていたのね。だって、あの高熱が転生による知恵熱なんて。この世界の誰が思うの? あの駄犬でも――まああれ以外は信じないわね。きっと。


「鼻なんて、匂いなんて、どうでもいいじゃない」


 獣人たちには大事かもしれないけれど。

 だいぶ薄れて来たとは言えど前世の記憶がある私にとっては、やっぱりそうとしか思えない。

 けれど、家政婦長は私の言葉を慰めとして受け取ったらしく、首を横に振った。その動きで、私はやっとあることに気づいた。近づいたので、よく分かる。さっき微かに匂っていた紅茶の匂い。それはきっとこの家政婦長の固有の匂いなのだろう。


「ありがとうございます。でも、お嬢様、『運命』に出会うことは型に関わらずの喜びですから」


 そう言って、家政婦長は涙を拭った。

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