第39話 匂い・1

 暗い視界の中、見慣れたベッドの天蓋が見える。


「あー……」


 乾いた喉から声を出してみるが、それ以上は何も出来ない。断片的な記憶を辿り、自分が気を失ってベッドに運ばれたのだと思い出す。寝返りをうつと、額から生温かい濡れ布巾が枕に落ちた。

 部屋の隅にはランプが着いている。見れば、椅子に腰掛けたネコ型の侍女がこくりこくりと居眠りしている。看病をしてくれていたのだろう。侍女を起こさないように、ベッドサイドの水差しに手を伸ばす。水を飲むと、ようやく少し頭が回ってきた。

 ああ、結局熱を出して寝込んだんだったのよね。細切れに悪夢ばかり見ていた気がするけれど。風邪にしたって、あの動悸や胸焼けはなんだったのかしら。

 あの時感じたようなひどく甘ったるい匂いはまだ鼻の奥に残っていて、じりじり痛むような気がする。

 まるで、前世を思い出して寝込んでいた時のようね。汗ばんでいて気持ちわるいわ。

 とりあえず廊下に出ようと鍵を開ける。するとその音で、流石に寝ていた侍女を起こしてしまった。侍女は私を予期していなかったらしく、眠たげながら驚いた声をあげた。


「あ、ああ、お嬢様、ですか。お目覚めになったのですね」

「看病をさせて悪かったわね。お風呂に入りたいのだけれど、今から準備できる?」

「ええと、家政婦長を呼んできます。お待ちください。私が出たら、絶対に部屋の鍵を閉めてくださいね」


 そう言うと、目を擦りながら、侍女がよろよろと部屋を出ていく。待っていろと言われた私は、侍女の椅子の側にあったランプを持ち、鏡台の前に座った。

 やつれているけど、意外と顔色はいいわね。どれくらい眠っていたのかしら。

 熱っぽさはもうないのだが、頬が赤いせいでむしろゾンビのように青白い普段より血色が良く見える。まるでセレナのような頬の色だ。

 水を飲みながら珍しい自分の顔に見入っていると、部屋のドアががちゃがちゃと音を立てた。鍵束を鳴らしながら、先ほどの侍女と家政婦長が部屋に入ってくる。侍女は部屋に入った途端、振り返って部屋の鍵を掛けた。


「お嬢様、鍵を閉めてくださいと申しましたのに」

「まあそんな薄着で。また風邪を引かれては困ります」


 家政婦長は私が夜着のまま鏡の前に座っているのを見ると、いつものように厚着をするようにとガウンを被せてくる。その唇からは今の今飲んでいたのか、紅茶のような匂いがした。


「汗をかきそうだから、上着はいらないわ。でも、お風呂には入りたいの」

「お嬢様、三日間も寝ていたのです。明日の朝にした方がよろしいかと思いますが。それより、今旦那様と奥様をお呼びしますから、ベッドへお戻りください」


 三日。薄々気づいてはいたが、そんなに寝込んでいたとは。自分ながら舌を巻く。しかし、そこまで寝ていたとなると、私は余計にベッドに戻る気にはならなかった。


「もう遅い時間なのでしょう? お父様やお母様を起こす必要はないわ。それより、何だかすっきりしなくて。体を洗いたいの。お願い」


 家政婦長は何とか私を寝かせようとしてくるが、私は再度要望を伝える。まだ鼻の奥が痛い。染み付いてしまった匂いは、体を洗えばきっとマシになる。こんな状態でベッドに戻ったところで、また悪夢を見そうだ。

 しばらくの攻防ののち。私が折れないことを知っている家政婦長はため息をついて、侍女に部屋付きのお風呂の準備をするように伝えた。


「でも、私がお付きすることが条件ですよ?」

「分かったわ」


 病み上がりで湯船の中でまた気絶でもしたら大変ですものね。いつも使っている侯爵家の家族用の浴室より狭くとも、贅沢なんて言わないわ。

 家政婦長がぴたりと後ろを着いてくる中、温かい蒸気のこもる浴室へと向かう。お湯は足首までは溜まっている。私はさっさと服を脱いで、浴槽へ腰を下ろした。顔にお湯をかけ、湯気を吸い込む。すると、やっと鼻の不快感が和らいできた。

 本当に、あの気分の悪さは何だったのかしら。

 落ち着けば、こんな時間のお風呂を許してくれた家政婦長に悪い気がしてきた。三日間寝込んでいる間の状況も気になる。私は背を向けている家政婦長へ話しかけた。


「わがままを聞いてくれて、ありがとう」

「今に始まったことではありませんから」


 そう言った家政婦長はかすかに笑っているようだった。その長い尻尾がゆらりと揺れた。


「何だか、ずっと鼻が痛くて。結婚式の途中で体調不良で退出なんてセレナには悪いことをしちゃったわ。明日になったら詫び状を書くから、用意をお願いね」

「かしこまりました。ヴァイパーがすぐに対処しましたから、伯爵家にはあまりご迷惑をかけずに済みました」

「本当に?」

「ええ、本当でございます。それに、貴婦人がめまいを起こされることはよくあることでございます。なので、むしろことを大きくすると、伯爵令嬢にご心配をおかけすることになりますかと」


 そうは言っても、本当にうまくやってくれたのかしら。

 ヴァイパーのことは信頼しているが、それでもまさかの気絶したくらいの体調不良を起こしたのだ。大騒ぎになっただろう。私がセレナの晴れの舞台を台無しにしていたら困る。


「ただし一点。ヴァイパーの投げ割ったグラスがありまして、弁償いたしました。それについてはご一筆頂いた方がよろしいですね」

「そうなのね。分かったわ。そうしましょう」


 ……ここまで言うのだから、本当に何でもなかったのかもしれない。

 確かにパーティなどで具合の悪くなる女性は多い。胴体を締め上げるコルセットや蝋燭の二酸化炭素のせいか、よくめまいを起こした令嬢をよく見る。気付け薬を持ち歩くのは貴婦人の嗜み。なら、本当に珍しいことじゃないのだろう。

 少しだけ安心した私は、湯船の中に深く体を沈めた。


「ああ、でも本当に驚いた。久しぶりにああいう場所へ行ったら、とにかく色んなひとがいて。ひとに酔ったというか、気持ち悪くなっちゃったのよね」

、のですね」


 家政婦長が噛み締めるように、そう言う。その物言いが何となく引っ掛かり、私は湯船の中からすぐに反論した。


「だからそう言っているじゃない」


 しばらくの沈黙ののち、家政婦長は納得を含んだような放心したようなため息をついた。


「いいえ、お嬢様。それは言葉通りの意味ではないのです」

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