第38話 違和感
「話だけって言ってたのに、とルドルフが拗ねておりましたよ」
ダンスの輪を抜け出し隅のソファに腰を下ろした途端、ヴァイパーがすっと横に立った。もう流石に慣れたが、最近は常にヴァイパーかアスピス、ルドルフが気付けば横に控えている。
「お手伝いは終わったの?」
「お飲み物の給仕などをしましたが。手は間に合っている、と」
ルドルフはセレナから招待を受けていたが、ふたりについては手伝いとして連れてきている。それは口実でしかないが、これで一応建前の筋は通せた。
「ご苦労様。反応はどうだった? でもこれでしばらくはこの話を消費するので忙しくなるでしょう?」
「ええ、そうでしょうね。皆様ざわざわされていましたから」
元婚約者同士の私と殿下が踊ったことで、庭園がざわめいていた。それからセレナが急な思いつきで私と踊り、最後に噂の渦中にあるセレナと殿下、おまけで私と先生が踊った。
殿下とのダンス以降は完全にその場のノリでしかなかったが、仲のいい友人たちの戯れにしか見えなかっただろう。この流れには、みな黙るしかない。先生はセレナが殿下と踊ることについて面白くなさそうではあったが、番になって落ち着いたからか、祝いの席だからか、割と冷静な目で見ていた。
もちろん圧は感じたけれど。きっと、私や殿下の意図を見抜いたのね。だってこれ以上、好奇心で色々とものを言ってくる連中にしっぺ返し出来ることはなかったでしょうから。やり過ぎでも、やるに越したことはないもの。
この結婚は殿下や私に祝福されたもので、セレナは関係ない。そもそもセレナは『運命の番』と前から婚約していた。そのアピールになればいい。
「……ああ、久しぶりにこういう場で踊ったら緊張した。喉が渇いたわ。後はもう隠れていようと思うから、何か持ってきてくれない?」
学園に入ってから、こういう場にも呼ばれることはなくなっていた。だからか、ひとに酔った気がする。バルコニーで見下ろしている時は気にならなかったが、下に降りてくると香水や化粧品、整髪料の香りでめまいすら感じている。しかし、私の役目はもう終わっている。あとはセレナが用意しておいてくれた部屋に居ればいい。女性相続人の話をしたところ、セレナには危ないと過剰反応されてしまった。
「そうおっしゃられると思って。こちらをどうぞ。今からディナーとのことですから、お料理もお部屋へお持ちしますよ」
いつの間にいたのか、アスピスが黄色の飲み物が入ったグラスを渡してくる。
「あら、よく心得たこと。そうだわ。殿下から王太子妃様へのウェディングドレスの注文を頂いたの。また色々忙しくなると思うけど、よろしく頼んだわよ」
「流石でございます」
細いグラスの飲み物からは、アンバーのような甘い香りがする。何の飲み物かは全く分からなかったが、私の好みをよく知っているアスピスが変なものを渡してくるはずはない。しかし、それを飲むとすぐになんだか胸焼けがしてきた。
何を飲んだのかしら。何だか頭がくらくらしてきた。
「何これ、お酒?」
「まさか」
アスピスが驚いた顔で首を振る。
「失礼」
ヴァイパーが私からグラスを取り上げて、口をつけずに毒味をした。問題がなかったようで、またグラスが返ってくる。
「いいえ、ただの柑橘のジュースですよ」
「変ね」
グラスを受け取り、匂いを嗅ぐ。今度は、シナモンやカルダモンのようなスパイシーな香りが鼻をくすぐる。柑橘にそんなものを入れるはずがない。
もうすぐディナーだから厨房で匂いがついたのかしら。いいえ、完全に香水かなんかに酔って、鼻がおかしくなってるのね。
「そういえば、ルドルフは?」
このふたりが帰って来ているのに、あの駄犬は一体どうしたのかしら。ルドルフが居れば、私の口にするもので何かあればきゃんきゃん騒ぐのに。
アスピスとヴァイパーは何とも言えない顔で笑う。
「給仕についたテーブルのご婦人たちにまだ捕まってますよ」
「それは……まあ、大変ね」
なんだかルドルフが荒れて帰って来そうな予感がする。身内以外には、あまり人懐っこい犬ではない。あまりに放っていると、ストレスで私に無駄吠えでもしかねない。
ルドルフは前に身請けを申し込まれたことがあったくらいだもの、今更変な話ではないわ。
「適当なところで回収しておいてね」
「承知いたしました」
「ルドルフさんに愛想がなくても、イヌ型の方は、どうもとっつき易いですから。仕方ないですね」
「ヘビ型はなあ……」
ヴァイパーとアスピスが言い訳のような言葉を漏らす。爬虫類が好きなセレナはふたりを紹介した時に喜んでくれたけど、もしかしたらセレナの家のトリ型の獣人たちにはこのふたりは怖すぎたのかもしれない。
半分ヘビ型の贔屓があっても、大体の小動物の天敵だもの。逆に、先生の家の方は猛禽類でヘビを狩る側。今日、やけにふたりが私の横に来るのは、護衛以上にモチーフの動物から来る苦手意識からかもしれない。
「それなら、ネコもヘビも入っている私なんかどうしようもないじゃない」
「…………」
私が同調すると、賢いふたりは黙ってしまった。
これだからヘビ型は。
しばらく黙っていたものの、なんだかだんだん気分が悪くなっている気がする。ジュースをおかしく感じたのは、体調不良で味覚がおかしくなっているからかもしれない。
色々と物事が終わって気が抜けて、急に体調が悪くなっているのかしら。何だか前にもこうなったことがあったような。あの時は婚約解消になった時だったわね。
「……やっぱり控え室に居るわ。なんだか少し疲れちゃったみたい。気分が悪いの。後でお水も持ってきてちょうだい」
ふたりが顔を見合わせ、ヴァイパーが退がった。
「私がお連れしますよ」
アスピスが支えられる位置に立つ。立ち上がると、胸がむかむかしてくる。
この甘いアンバーの香り、やけに鼻につくわね。
アスピスの手を借りながらバルコニーの部屋に戻り、肘掛けに座り込む。だいぶ熱っぽくて具合が悪い。
脳貧血でも起こしているのかしら。
こういう時は心臓の位置よりも、頭を下げてじっとしておくしかない。肘置きに体を預け、ため息をつく。息をすると、さっきのアンバーのまだ匂いがする。鼻について取れない。息がしづらい。吐き気がする。汗が止まらない。
「……ねえアスピス、窓を開けてくれる?」
顔を上げた瞬間、ネックコルセットの下、針を刺すような悪寒が首筋を走った。アスピスの瞳孔の割れた赤い目が至近距離から私を見ている。
「お嬢様……」
すり、と頬を撫でられる。この状況は身に覚えがあった。体が硬直する。
「ア、アスピス」
さっきから鼻につく甘い匂い、それは目の前のアスピスから匂っているのに私は気がついた。息をするのが、怖い。
アスピスの手が私の喉元に降り、ネックコルセットのリボンにかかる。
まずいと思った瞬間、私は頭から水をかけられた。重たい頭を上げ、ドアの方を見ると、ヴァイパーが空のグラスを持って立っている。
「アスピス! 何をしている⁉︎」
甘い匂いがドアからの空気で、少しだけ軽くなる。しかし、ヴァイパーがアスピスを殴りつけ私を庇うように立つと、その背からはスパイスのような匂いを強く感じた。
「窓を開けろ!」
ヴァイパーはグラスを放り投げ、部屋の窓を全開にする。床に叩きつけられたアスピスが我に返った顔で、ヴァイパーとは反対側の窓に飛びつく。
部屋の空気が軽くなっていく。それでも、動悸と共に、視界が暗くなってくる。
「ルドルフをお嬢様に近づけさせるな。それに、家政婦長を呼び寄せろ!」
ヴァイパーが叫んでいるのが聞こえる。目の前はもう目が開いていても暗転している。しかし、遠くから、もっと強い、甘ったるい匂いがする。それが近づいてくる。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
目を閉じて、項垂れる。私の意識はそこでぷつりと途切れた。
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