第7話 婚約解消

 ルドルフの牙の痕が首筋から完全に消えるのには、数日かかった。

 その間、学園に通うことはできず、ヒロインとの情報交換もできずにいたのはもどかしかった。しかしゲーム開始であろう今年の入学式からはまだ2週間しか経っていない。私が一番関わるだろうライオネルに関して言えば、まだ遭遇してからこの土日を含めて6日経過したのみだ。

 学園ものなら、物語のタイムフレームは三年間になるはず。学業もあるし、流石に数日でそんなに変化はないわね。

 ――と思っていたのだが。翌週に登校した途端、私はライオネルに放課後の生徒会室へ呼び出された。


「ディライア・サーペンタイン、参りました」


 ライオネルしか生徒会室にいないのを認めると、私はさっと頭を下げるだけでライオネルへの挨拶とした。ライオネルは形ばかりの婚約者とはいえど、子どもの頃から公式の場では一緒に居させられたので彼の性格はよく分かっている。これくらいで腹を立てるような男ではない。

 しかし、私がライオネルに近寄った瞬間、その鼻先に皺が寄った。

 

「相変わらず君はあのオオカミ臭い。しかも今日は一層匂う」

「そうかしら?」


 ライオネルの横で自分の匂いを密かに嗅ぐ。が、自分では分からない。

 ルドルフはここ何日か、接近禁止にしておいた。ライオネルがこうやってフレーメン反応をするほど接触はない。私の知らない間に、私の部屋にでもいたのかしら?

 ライオネルは妙な表情で笑った。

 

「鼻が悪いのは変わらないな」


 さら、と髪を持ち上げられ、嫌悪感が全身に走る。私は反射的にその手を払った。


「私に触れないでくださる?」

「なんだ、その手。怪我をしていただけか。ついに契ったのかと思ったんだが。君がしばらく学園に来なかったから」

「……ありえませんわ。あの駄犬はただの使用人ですから」


 ライオネルは、この何日かの間私がいなかった理由を、駄犬とそういう関係になったからだと思ったらしい。

 本当に、この世界のこの価値観は私には受け入れられない。匂いがするから私がルドルフと番になったと周りは思う。本物の獣と紙一重だ。私の閨を勝手に想像され、下卑た質問を受けるのはこれが初めてではない。前世の記憶を思い出さなかったら、私もこの常識の中で生きていたのかと思うと、ゾッとする。

 

「それで、お話とは何ですの?」


 軽く咳払いをして、私は本題に促した。ライオネルがこちらに向き合う。その瞳は真っ直ぐだ。

 まさか、と思うが、私の直感はすぐに実証される。


「ディライア・サーペンタイン。俺との婚約を解消して欲しい」

「あら、それは願っても――」


 そう言いかけて、ルドルフのことを思い出す。

 もし今ライオネルと婚約を解消したら。あの駄犬がもっと調子に乗って、お父様とお母様公認で私と番になるなんて言い出しかねない。次がない状態でフリーになる、というのはリスクでは?


「もし私が出来ない、と言ったら?」

「すまないが、俺は今すぐ婚約を解消しなくてはならないんだ」


 そう言って、ライオネルが笑う。私が見たことのない顔で。

 ああ、ヒロインに出会ったからなのね。


「『運命』と出会ったんだ。彼女と番うために、君と婚約していることが出来なくなった。だから――」

「貴方はそもそも何人も側室を立てるでしょうに、その方は婚約者の一人も許さないの?」


 ライオネルが王族でライオンの獣人というのは良く出来た設定だ。ハーレムを作るライオンと、正妃と側室を持つ王族。番の概念がある世界でも、そこに違和感は持ちにくい。

 婚約者である私であっても、ただ正妃の候補であったに過ぎない。もしライオネルが外国の王女と結婚した場合、私は側室候補に降りただろう。だから、ライオネルに関して言えば、複数の番がいても問題がない。それなのに、だ。

 

「彼女は俺の『運命』だ。俺が彼女に誠実でいたい」


 きっとここが物語世界だなんて知らない獣人の悪役令嬢ディライア・サーペンタインならここで食い下がり、自分の身を滅ぼすほどにヒロインを攻撃するのだろう。それは蛇のように狡猾で、豹のように獰猛に。

 そんなディライアのせいでライオネルはよりいっそう高貴な王子としての責任と、主人公への情熱の間で葛藤したに違いない。が、ヤンデレ落ちになるはずのライオネルが、ここまで爽やかに振り切れるとは思っていなかった。


「……なら、仕方ないですわね。『運命の番』に巡り会ったのなら、誰にも止められませんもの」

「ありがとう、ディライア」


 あら、と小さな違和感が胸を過ぎる。思い返せばこの居丈高な男にお礼を言われたのは初めてじゃないだろうか。それが最後の最後に、なんて皮肉なものだ。

 確かに、私はお礼を言われたりするような婚約者ではなかったわね。


「いいえ。殿下、私のことはサーペンタインとお呼び下さい」

「そうだったな……サーペンタイン嬢。婚約解消のことは、後ほど成文化して侯爵殿へお届けするようにする。急な呼び立てにも関わらず、ご苦労だった」


 片足を引いて軽く膝を曲げ、ライオネルに退室の挨拶をする。


「ごきげんよう、殿下」


 部屋を出た瞬間、これから何をするべきだったか思い出せなくなった。漸くして、もう帰る時間だったと思い立った。


「さようなら、ライオネル」


 私は扉の向こうに小さく別れを告げて、踵を返す。

 さようなら、私の長年の苦悩。さようなら、悪役令嬢という役割に争い続けた日々――まさかこんなに呆気なく終わるなんて思わなかったけれど。

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