第8話 燃え尽き

 私はもう自由だ。

 そう思って心が軽かったのは束の間で、私はすでにその自由に戸惑いを感じている。ずっと心を占めてきた心労が消え去った。しかし、その心労が埋めていた何かがぽっかりと穴を開けてしまった。それはひどく空虚で、静かな薄寒さまで感じる。

 悪役令嬢としての役割、殿下に対する嫉妬心や断罪への恐怖、ヒロインとの対峙に対する覚悟――それらがなくなった今、私は何者なのだろうという迷いが心をかすめる。

 別に、殿下が好きだったわけではない。キャラとして思い入れはもちろんない。しかし、私はライオネル殿下の婚約者として人生の半分以上を過ごしてきた。その肩書きも、先ほど王室書記官が持ってきた文書で実を持って無くなった。

 正直、殿下に関しては計算高いくせに最終的には高潔な方法で通してくる苦手な相手だった。が、素直に尊敬できる相手だった。尊大だが、器は小さくない。複数の番の存在ライオンのハーレムで負担が分散するという意味でも、番としては悪い相手ではなかっただろう。

 しかし、私は彼の『運命』ではなかった。だから、彼にとっての負けヒロインとしてさっさと敗退できたのは幸運なはずのだ。はずなのだが、私は虚しさを感じていた。


「最初から可能性さえ捨てていたのはもったいなかったかしら?」


 私は切ないため息をつく。

 主人がため息をついたのにも関わらず、駄犬は私の髪に鼻を突っ込み、きゃんきゃんと騒いでいた。本来ならこの駄犬をすぐにでも部屋から蹴り出さなくてはいけないのだけれど、そんな気力もない。何だか体が重い。

 はあ、耳元でうるさいこと。


「お嬢、俺という番がありながら! 髪からライオネルの匂いがするんだけど!?」

「殿下が髪に触ったからよ」

「触っ……何で!?」


 ルドルフも開き直ったものね。今までは殿下と私がお会いしたとしても……いいえ、元からこんな感じだったかしら。匂いにうるさいのはイヌ型の習性くらいにか思っていなかった。私がルドルフの意図に気がついただけ。

 私に気力がないのを良いことに、調子に乗って髪を乱し続けているその手を払いのける。駄犬の邪念がかかっているからか、触られているだけで身の毛がよだつ。


「お嬢って、あいつに何だかんだ言ってあいつに甘いよね。俺が同じことをしたら、こうやってすぐに叩くのに」

「それはそうでしょう。あちらは王子殿下。お前は使用人なんだから」


 まさか殿下の手もすぐに払いのけたとは言えず、そう冷たく言っておく。するとルドルフは私の座るソファの肘置きに頭を突っ伏し、弱々しく唸った。


「だってお嬢は俺の『運命』なんだもん……」

「違うわよ」


 否定すると、即座にルドルフがわんわんと言ってくる。

 しばらくは隠しておこうと思ったが、こうやってルドルフが過剰反応してくると分かった以上はバラしておいた方がいいかもしれない。


「あーもう、うるさいわね。殿下との婚約は解消になったわよ。『運命の番』に出会われたんですって。これで満足?」

「本当?」


 ぱあ、とルドルフが満面の笑みで浮上する。そのまま調子に乗って私に抱きついてきたので、適当に押し返しておく。

 これから、この犬をどうしようかしら? ヒロインがライオネルのルートに入ったのなら、私もお役御免だけれど、ルドルフもお払い箱よね。


「じゃあライオ……王子は、そのゲーム? のヒロイン? の番になったってことでいいの?」

「そうね。殿下はそのつもりだったわ」


 前世のことやゲームのことはざっくりとだがルドルフだけには話している。右腕として、私が突飛なことをした場合の裏の事情を分かっていて欲しかった。

 それに前世の知識や常識を得たことで、私の考え方は大きく変わってしまった。それ故、あまりに獣人たちが驚くようなことをして、常識のない令嬢だと悪目立ちすることだけは避けたかった。


「じゃあ、もう不安が無くなったってことじゃない。よかったね、お嬢。お嬢って異常なくらい心配性だから。子どもの時からずっと言ってたけど。王子と円満に婚約解消できなかったら、追放とか侯爵家のお取り潰しとか。死ぬほど恐ろしいことが起こることになっていたんでしょう?」

「ええ、そうよ。ダーク系の十八禁ゲーだから、心をバキバキに折るようなエグい結末になっていたでしょうからね」

「……? よかったね?」


 それはそうなのだ。『おりおり』は成人女性向けタイトル。ヤンデレな攻略対象たちが愛故にヒロインを傷つけるのは許されている。が、それ以外の余計なキャラがヒロインを害することはプレイヤーも攻略対象も許しはしない。よってもしも私が脚本家なら、リョナまではいかなくとも尊厳を傷つけるようなしっぺ返しをする。それはそれは厳しい報復を、間違いなく。

 やっと前提条件を思い出し、確認できる。私は間違えてない。ライオネル殿下との婚約は破棄ではなく解消という形で終われた。『運命の番』が現れた故の破談なら、私の名誉に傷もない。ヒロインとは敵対もしていない。安全に悪役令嬢の役も降りられた。私は損などしていない。


「でも、私はこれから何をしたらいいのかしらね?」


 ぽそり、と呟いた私の言葉に、駄犬が飛びつく。


「お嬢、やることならたくさんあるよ。俺と商会を盛り上げたり、侯爵領を治めたりしようよ。学園だって辞めたっていいんでしょう? なら、隣の国へ買い付け旅行とか行こうよ。きっと楽しいよ」


 あら。俺と番になって云々、とでも言うかと思った。まあ、気弱になっていたとはいえ、駄犬がそんな事を言い出したらお仕置きしていたところだけれど。

 確かに今までの目的は無くしてしまったが、この世界を平穏かつ快適に生き抜くにあたってはやらなくてはいけないことばかりだ。ルドルフの言う通り、楽しいだろうこともきっとある。退屈はしないだろう。

 

「そうね、私もフリーになった事だし。パーティーに出たり、お見合いでもしてみようかしら」

「ええっ何で!? もう王子みたいなのはお嬢には要らないよ。俺がいるんだから、やめてよ」


 わざとルドルフが嫌がるような事を言ってみる。と、思った通りの反応をルドルフが返してくる。私はそれを見て、くつくつと笑った。

 私の意地の悪い笑い顔を見て、ルドルフはまた肘置きに沈む。


「あーあ……お嬢って、ほんっと意地悪だよね」

「性悪なのは元よりよ――あら?」


 廊下の足音に続き、自室の扉が叩かれる。扉の外で、侍女が声を上げた。


「失礼いたします。セレナ・ヴァンドール様という方がお嬢様にお会いしたいとのことで、いらしております。いかがいたしましょうか?」

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