第6話 飼い犬・3

「ほら、座って待っていて」


 私をベッドの縁へおろし、走って部屋を出ていく。私が逃げ出すかどうかを迷っているうちに、ものの十秒で消毒液と包帯を持って戻ってきた。また立ち上がりかけた私をベッドに座らせ、ルドルフは手の平の怪我を手当し始めた。


「私に触らないでちょうだい!」


 その手を払おうとするが、ルドルフの手が離さない。躊躇なく、アルコールを傷口に吹き付けてくる。


「牙の怪我は、ばい菌が入りやすいからね。お嬢だって見えるところに傷が残ったら嫌でしょう?」

「…………」


 とはいえ、元はと言えばこの駄犬が私に噛みつこうとしてきたことが原因だ。きっとヘアブラシで殴りつけた時に、手に触れたのだろう。ぎざぎざに裂けた皮膚を見ながら恐怖を覚える。少し触れただけでこれなら、首を噛まれていたら頸椎を噛みちぎれていたか、失血死していたんじゃ?


「お嬢は俺の『運命の番』なんだから、これくらいさせてよ」


 ルドルフは私をそういう目で見ているということを開き直ったらしく、軽い調子で『運命』だなんて言ってくる。

 

「だからそれがそもそも……」

 

 そこまで言いかけて、私は口を閉じた。なぜか、手を触られているだけなのに悪寒と鳥肌が走っている。いくらいつもの調子に戻ったと言っても、やはり先ほどの告白の後に、ルドルフ自体を生理的に受け付けられないのだろう。

 手当が終わるとルドルフは、あ、と声をあげて、私の髪に触れた。


「怪我した手で触ってたから、反対側の手も首にも血がついてるね」


 私の髪をかき上げ、そう呟きながら私の首元を眺める。髪を触られるでさえ、ざわざわする。ルドルフは血のついた首と手を拭うと、嬉しそうに怪我をしていない方の手の平にキスを落とした。


「な、何するの、この駄犬!」


 ぱん、とキスをされた手でその頬を叩く。が、ルドルフは依然嬉しそうにしている。

 こいつ、マゾだったのかしら。気持ち悪い。それなら今までの私の折檻もご褒美だったに違いない。完全に性格を読み違えていたわ。


「お嬢、ほら見てみなよ」


 駄犬がうきうきとした調子で、私を鏡の前まで引っ張っていく。鏡には、先ほどまでの乱闘で頬に赤みを差しながらも少し疲れた顔の私がいた。


「なんだって言うのよ」

 

 何を指して言われているのか分からないまま棒立ちになっている私の髪を、ルドルフはさっと持ち上げた。乱れた髪を今以上に乱した駄犬が手鏡まで持ち出して見せつけてくる首元――うなじにはみみず腫れのような細い赤い痕が走っていた。


「これってつまり、俺がお嬢の番になれたってことだよね?」


 ルドルフが金の目をキラキラと輝かせ、ちぎれそうな程に尻尾を振っている。

 そのまま引きちぎれたらいいのに。


「……これは、私の爪の痕よ!!」


 思わず威嚇をしながら駄犬の顔を引っ掻いてやる。ルドルフの顔に、私のうなじにあるような赤いみみず腫れが四本分残った。もしも私が全力で爪を立てれば、先ほどの駄犬の牙のように皮膚がずたずたになる事実をこの駄犬は分かっていない。オスのオオカミとメスのヒョウなら、体格に極端な差はない。だから、私が本気でルドルフと争えば、お互いにただでは済まないのだ。

 そんなこと知らないとはいえ、争った時の損失も考えずに、この駄犬は。先ほどはお父様を丸め込んだ手腕には感心したけれど、本当に頭の足りないこと。


「お前、力の使い方には気をつけなさい。これからお前はか弱いご令嬢の番になるのかもしれないのよ?」

「でも、俺はお嬢の――」

「だからそれはお前の勘違いでしょう。お前はそう言うけれど、私は何も感じていないんだから」


 仮にルドルフが『運命の番』だったとしたら。あの十年前の雪の日、見すぼらしい誰かと目が合った時、恋に落ちていたはずなのだ。

 駄犬はみるみると元気がなくなり、項垂れ始めた。


「お嬢って鼻があまり良くないよね。ヘビ型もネコ型も鼻がいいはずなのに。匂いでわかるのに……」

「鼻?」


 イヌ型の獣人は匂いに非常に敏感だ。そもそも獣人たちは何かあれば、すぐに匂いがどうのという話を始める。しかしイヌ型の狼の獣人たちほどではない。

 とはいえ、ルドルフの言う通り別にネコは嗅覚が劣っている訳ではない。ルドルフが私の匂いに何か思うところがあったとしても、結局私が感じていないなのなら、やはりルドルフの思い違いだろう。


「そんなことより。引っ掻き傷とはいえ、こんな傷が誰かに見られたら、ことだわ。しばらくは出かけられないわね……」

「え、お嬢、しばらく家にいるの? やった!」


 先ほどまで落ち込んでいたルドルフが、尻尾を振りふりじゃれついてくる。同い年だが貴族出身ではないルドルフは学園には通う資格がない。だから、平日は家を空けがちな私が家にいるのが嬉しいらしい。

 しかし、別に可愛くはない。


「誰のせいだと思っているの? 早く部屋から出て行きなさい!」


 きゃんきゃん騒ぐ駄犬を部屋から追い出し、部屋のドアノブに家具を引っ掛けて塞ぐ。部屋の外からは情けないルドルフの声が聞こえてくる。

 こんな男に恐怖した自分が情けない。それでも、もう私の中ではルドルフは警戒対象入り。まさか私を無理やり番にしようなんて度胸があるとは思っていなかった。本当に、体術を学んでおいてよかった。

 ため息をつき、鏡で首元を覗き込む。ルドルフにはああ言っておいたが、私の爪痕はこんなに太くない。つまり、これは間違いなく駄犬の牙が掠った痕だ。


「……消えなかったらどうするのよ、これ」

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