蕾の白薔薇(6)

僕はただじっとわずかな風の音を聞きながら、静寂に満ちた夜を過ごした。満月は緩慢な動作でゆっくりと地平線に沈みゆく。満月のふちが沈み始めた時、僕の瞳は再び激しい光を帯びた。


満月が沈むとき、僕の躰は人へと戻る。その時も少なからず痛みを伴ったが、そんなことは些細なことだった。


だって、夜が明けたらあの子に会えるのだから。


弾む胸を抑えきれない早朝、夜が明けたばかりの時間に彼女の部屋へと行く。満月が沈んだばかりの白んだ空が、僕の心のように澄み渡っていた。


僕は心のままに、彼女の部屋の扉を勢いよく開けた。




「神様、助けて。」


明け方に、呼吸の仕方を忘れたらしい肺を叱咤するように呟いた。私の躰は、どんどん言うことを聞かなくなっている。前は少し、息が切れる程度だった。咳だって少なかったし、普通に生活できた。短い時間だったけど、鬼ごっこだってできたのに。


数年前から、病状は急速に悪化した。丁度、お医者様に「命の刻限」だと告げられたくらいの歳からだ。咳が増えた。起き上がることすらつらい日が増えていく。開け放った引き戸から聞こえる、塀の向こうの楽しそうな声。私の心なんて気にしない優しいそよ風。小鳥の鳴き声。その全部が憎らしく、壊したくなって手を握りしめた。


見下ろした自分の手は、骨に皮が張り付いたような惨めな形をしていた。


私は決めた。優しい綺麗な子を演じようと。吹けば散る儚い人間を模っていれば、誰もが私を案じた。優しい目で、しぐさで、私を見て、触れてくれる。それに私は感謝した。それが、毎日繰り返される。


吐き気がした。私は、そんな綺麗な子じゃない。


本当は、つらかった。死ぬのだって怖い。神様に捧げられるのだって、震えが収まらなかった。捧げものは鉱物で重かったし、熱に浮かされるような体が動かなくてもどかしかった。


でも言えない。助けて、なんて。


だって私は、「不治の病でも変わらない優しい子」だから。そうしなければ、周りの人たちをつなぎ留められないから。迷惑にならないように。邪魔だと極力思われないように。めんどうのない、イイ子でいなくては。


だから我慢してたのに。神様にも悟られないように、我慢してたのに。


咳があふれた。血の風味が鼻を通りぬける。息が苦しくなって、床にへたり込んだ。目の前が酸欠で歪んで、脳がぼんやりする。その感覚をどこか他人事のように感じながら、これだけを思った。


ああ、面倒な子だとわかってしまった。きっともう、邪険にされる。


でもそうならなかった。神様は慣れていなさそうに私に付き添い、私を案じてくれた。そのあと、思わず話してしまった身の上も、真摯に聞いてくれた。本当は親友の身代わりになった話がしたかったんじゃない。頑張って生きてきたことを、誇りたかった。こんな死に損ないでも、必死に命にしがみついていたんだと。


神様は、私を綺麗だと言った。死ぬまで気丈に振舞うつもりだったのかと、憤った。私の「優しさ」を否定してくれた。そして異国の御伽噺のお姫様にするように、私を横抱きにして寝かせてくれた。


全部の手つきが優しくて、慈愛に満ちていて、私は泣きそうだった。私を知りたい、そう言われて私は期待してしまった。


人ではない、この綺麗な月のような人が。私に恋をしてくれたなら。


私は親友を思い浮かべていた。愛して愛されて、幸せそうに笑っていたあの姿を。私も、誰かを愛してみたい。こんないつ死ぬともしれない私の愛に、応えてくれる人がいてくれたら。そう願ってしまった。


だから私は、初めて縋った。


「くる、しいよ……たすけて、かみさま……」


かすむ視界に、綺麗な銀の髪がはじけたような気がした。




【お、おい!返事をしてくれ!頼むから!】


明け方の、薄明るい室内。穏やかに眠っていると思っていたあの子は、苦しそうに眉をひそめたまま、微動だにしなかった。人間なら生きている限り動くはずの、心臓の鼓動がしない。揺さぶっても、叩いても、呼びかけても。あの子は何も返事をしてくれなかった。そのことが、僕をおかしくさせた。


【もう一度、声を聞かせて……】


唇を寄せて、直接息を吹き込む。自分が知る限りの蘇生法を試しながら、なけなしの神の力を注いだ。彼女の体が淡くぼんやり光って、胸が弱弱しく、でも規則的な上下運動を始める。


【お願いだから、眼を開けてくれ】


持っている力のすべてを、治癒の力として彼女に注ぎこむ。けほ、と乾いた音と共にうっすらと瞼が開く。月のような銀灰色の瞳が、涙の膜で潤んでいた。


「ああ、かみさまだ……ほんとに、きてくれた、の?」


【当たり前だろう!死にそうになっていて、開口一番がそれか!?君はもっと、自分の命を、からだを、鑑みるべきだ!馬鹿だよ、本当に、君は馬鹿だ!】


「あ、りが、とう。ねえ、かみさ、ま。わたし、いきてて、よかった……」


【本当によかった。今はもう大丈夫だから、安心するといい。ほら、眼を閉じて。深く息を吸って、吐いて。体の力を抜いて。】


僕の言葉に従ったあの子は、すぐに穏やかに眠り始めた。


僕はため息をついて、自分の部屋に戻る。


あの子は、本当に「死」を疎遠に感じていたのだろうか。今まで見たどの贄よりも、命がなくなることに慣れている感じがする。恐怖で泣き叫ぶこともない、狂ったように笑うこともしない、それどころか安堵すら覚えているような顔。整った人形のような風貌をゆるりと緩めて、綺麗な瞳をそっと閉じて。


ああ、あの顔が嫌いだ。そう思う。死を受け入れて、生きることをあきらめる表情。彼女の笑う顔は美しいけど、あの微笑みだけは嫌いだと思った。むしろ嫌悪しか感じられない。あんな顔、もう二度と見たくなかった。


ふう、と意識的に息を一つはいて、気持ちを切り替える。今日は何をしようか。誰かに望まれるまで、あの子が望むまで、僕は何もできない。


呆けているのにも飽きて、外をうかがってみようと水晶玉に手をかざす。あの子の心のように澄んでいて、少しだけ濁っている水晶玉。あの子からの贈り物。万一にも落として割ったりしないよう、そっと手を伸ばすと外の景色が見えた。


自身の神殿の周りしか見えないが、それで十分だった。別に興味を引くものがあるわけでもない。神殿の外の森を眺めたり、木漏れ日を映してみたり、気まぐれに景色を変えていく。すると、神殿の廊下の曲がり角にひらりと白いものが躍ったのが見えた。ずいぶんと低い位置にあって、それが何だったのかはよくわからない。気になって、水晶玉の景色をこまめに切り替えながら白い何かを探す。


暫く探すと、僕の部屋にほど近い廊下で、その白いものを見つけた。高さはあまりないくせに、やけに平たく細長く伸びている。今はもう動いていないようで、時折ずるりと少しずつ移動するだけだった。


白いものが気になった僕は、見に行くことにした。こんな変なものであれば、あの子が次、眼を覚ましたときにいい土産話になるだろう。


無駄に重く分厚い扉を押し開き、部屋の外に出る。少し速足で、水晶玉で覗いていた場所まで行く。その場所に近づくたびに、嫌な胸騒ぎがしてくる。気づけば僕は、小走りになりながらその場所へ急いでいた。


知らないうちに息が上がる。嫌な予感で、鼓動はどんどん高鳴っていく。次の曲がり角を曲がればもうあの場所につくはずだ。何故だろう、目的の方向から微かなうめき声がするのは。予感は確信に変わり、僕は急いで廊下を曲がった。


「かみ、さま。」


か細い声が、白いものから発せられた。ずるり、と白い敷布がずれて、細い美しい少女の姿を見せる。ころりと仰向けになった少女は、覆いかぶさるように少女をのぞき込んでいた僕に、そっと手を伸ばした。その手がそっと頬に触れる。


少女は、酷く美しく微笑んでいた。


「ねえ、神様。きいて。神様、泣かないで。怖かった、独りきりの夜。明日目覚めることはないかもしれない、そう思う不安な夜にも、神様つきは私を照らしてくれていた。静かな、月が綺麗な、誰もいない夜は、私は惨めな思いをしなくてよかったんです。月下のもと、咲き誇る月下美人は綺麗でしたよ。私は、昼よりも夜の方が、ずっと呼吸が楽でした。貴方様は、もう十分、人を幸せにしておられるんです。『お願いですから、自分を責めないでくださいませ。貴方様はもう十分、人々に幸を与える神なのですから。そんな方が悲しみに暮れるなど、いけませんから。』……ふふ、私の、最初で最後の、告白ですよ。嬉しそうになさってください、ね?」


ぽとり。頬に添えられていた手が力を失って落ちる。僕はあわてて、その手を救い上げて、もう一度握りしめる。きっと弱弱しくても、握り返してくれる。そう願った。


終ぞ、少女の手が僕にもう一度伸ばされることはなかった。


【僕を、置いていくのか。僕をかき乱して、悲しむことを禁じて。独りよがりに幸せそうに笑って。なあ、応えてくれよ、君の声で。もう一度、笑ってくれ。きっとまた寝ただけなんだろう?もう少ししたらきっと、目覚めてくれるんだろう?頼むから、「そうだよ」って、返事をしてくれよ……!】


ぬくもりを失っていく、骨と皮ばかりの手を握りしめた。ポタリ、ぽたりと、少女に熱い滴が降り注ぐ。その滴は、止まらない。ぬくもりを失った少女に、熱を分け与えようとしているかのように、滴は流れ続ける。けれども、一滴一滴はやがて乾いて、少女の残り少ない体温を奪っていった。


どれくらいの時間が経っただろう。壊れた蛇口のように、滴をこぼし続けていた僕はいまだ止まらない滴をそのままに、天を振り仰いだ。真っ白な天井が、熱をもった瞳には眩しい。


【さようなら。僕の生贄。】


やっと絞り出すように口にできた言葉は、それだけだった。


嗚呼、悲しい。苦しい。頬を流れていく滴は、握っている冷えた手と反対に酷く熱かった。滲んでぼんやりした視界で、ぼんやりと真っ白い天井を眺める。


ああ、この熱く苦しく切なく儚い思いは、きっと僕には早すぎる思いだった。










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