ルリアザミにリンドウ(5)

最後のページにそっとつづられた、今までで一番綺麗な文字。私はそっと日記を閉じた。胸がぎゅっと締め付けられるように苦しい。


生贄の人の日記だと思っていたのは、神様の日記だった。多分、何十年も前の時の神様が書いたもの。そこには、何もできないと嘆く嗚咽が、どうしてこんなにも無力なのかという憤りが、救えないことへの懺悔が、ただ書き付けられていた。


台所の火がパチリ、パチリとはじける。私は日記が燃えないように、火の傍に置いていた日記をあわてて抱き寄せた。


ああ、どうしてこんなことを想うのだろう。どうして、こんな醜い感情が心を支配しているの?私は胸の中に渦巻くどす黒い気持ちをどうすればいいかわからなかった。


「なんで、うらやましいって、思っちゃうんだろう。」


私は思わず言葉をこぼした。誰も聞かないそれは、静かな新月の月夜にポトリと落ちて、闇に溶けた。


そう、これはきっとうらやましい、妬ましい、嫉妬する、ということ。


神様の心に強く残る、一人の生贄。たった三日しか神様とともにいなかったのに、神様は何十年と経った今でもその生贄を覚えている。私も神様と三日間過ごしているけれど、今私が死んだところで神様は何十年も私を覚えていないだろう。


どうして、私はこうなの?強欲で傲慢で、もっともっと欲しくなってしまう。神様に赦された。神様と御話だってできる。今日だって一緒に食事をとったし、きっとこれから死ぬまで私は神様とずっと一緒。なのに、神様は私のことをいつかは忘れてしまう。三日間しか一緒に居なかった生贄は覚えているのに。もっと、もっと、神様に愛されたい。存在を認めて欲しい。私だけを見てほしい。


そんな思いが心を吹き荒れて、私は苦しかった。どうしていいかわからなかった。それに、もう死んでいる生贄に何かすることはできない。


私はこれから生きている限り、あの生贄にはかなわない。


そう思うだけで、胸が痛かった。そう考えるだけで、脳が焼けるように熱くなる。神様の孤高なオオカミの姿、無邪気な少年の姿、威圧感のある青年の姿、笑顔、困り顔、苦悶の表情。今までの神様との思い出がぐるぐると頭の中をめぐる。そのどれもが、幸せなものだった。私と神様だけの、たった二人きりの大切な思い出。


でもその表情を、きっとあの生贄は知っている。そしてきっと私以上に、神様との思い出を持っている。


そのことが、どうしようもなく嫌で嫌でたまらなかった。


血がのぼった頭はくらくらと揺らぐ。目の前も同じようにぐらぐら揺らぐ。呼び起こそうとしていた眠気は、どす黒い嫉妬で吹き飛んでしまった。ああ、気持ちが悪い。罪だとわかっていながら、嫉妬する自身の浅ましさが。どうしようもないこの感情の名前を知らない無知さが。変えることもできないのに。敵わないのに。叶うはずがないのに。ああ、こんな思いなんて知らなければ良かった。


「神様、私は、おかしくなったかもしれません…」


自嘲気味に、そう言ってみた。神様が聞いているはずもない、けれど静まりかえった場所で。こんな夜には思うことすべて、吐き出してしまってもいいかもしれない。


どうしようもなく苦しくて、どうしようもなく寂しい夜には。


心からあふれた思いを吐き出すように、大きくため息をついた時だった。


【可哀そうに。そんなに苦しそうにして、どうしたの?】


背後から、今だけは聞きたくなかった声がした。振り返れば、そこにはよく見慣れた人が壁にもたれて立っている。


「かみ、さま…」


言えない。神様の日記を勝手に読んでしまったなんて。…そして神様の心に残る生贄に嫉妬してしまっただなんて。私は恐る恐る、目の前にあった日記をそうっと後ろ手で服の中に隠した。部屋は暗く、明かりは台所で爆ぜている火だけ。これなら神様にも、日記は見えないはずだ。


【ふーん。いつもならすぐに寝所へ行くクイートが夜更かしだなんて、珍しいこともあるんだね。】


「ま、まあ。私にだって、眠れない日くらいありますから。」


【そう。明日だってまた学ぶんだろう?もう夜も更けた。そろそろ寝所に行って休んだ方がいい。僕は、クイートが心配になるよ。】


「ありがとう、ございます。では、おやすみなさい。」


私はどこかぎこちなく、神様に背を向けた。その時、背中に隠していた日記がパサリと落ちる。私が慌てて拾おうとするよりも早く、神様がひょいっと日記を拾い上げてしまった。


(どうしよう…絶対、怒られる…)


勝手に日記を持ち出して、読んだなんて神様が知ったら。きっと私は、神様から嫌われてしまう。せっかく、せっかく、神様に赦してもらえたのに。


そう思うと、泣きたくなるくらい苦しくなった。


神様は、何も言わずにパラパラと日記をめくっている。その表情は、暗い部屋ではわからない。でもきっと、不機嫌な表情を浮かべているのだろう。


【ねえ、クイート。これを読んだの?】


ああ、聞かれてしまった。もう今更、許しを願えるはずもない。


「はい、すみません。薄いので、簡単な本だと思ってしまって。ですが、読んで、しまいました。」


覚悟を決め、正直に答える。この先神様がなんていうだろう。私は恐れのあまり、ぎゅっと目をつぶった。


神様に、たった一人、私を赦してくれた人に。嫌われてしまうのが恐ろしかった。






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