第6話 エリカとスカビオサ(4)

「カンラ、置いてきちゃった…嫌なことしちゃったかな?」


森の中を走り抜けながら、少し後ろめたく思う。燦燦と降り注ぐ木漏れ日が暖かい、森の中はひたすらに静かで美しい。


「でも、この森は、不思議な森…」


変な森。とても静かで、鳥の鳴き声さえしない。でも、生き物がいない代わりにたくさんの木の実があった。少し注意して地面を見るだけで、あっという間に両手に収まらないほどの木の実が集まる。これなら私の分だけではなく、カンラもお腹いっぱいになれるだろう。上を見上げれば、見たことはないがおいしそうな黄色の実がなっている木がいくつも生えている。そうやって森を夢中で歩いているうちに、いつの間にか空はだいぶ夕方に近づいていた。


「いけない、そろそろ夕方だ…」


帰らなくちゃ。そう思ったのもつかの間、私は恐ろしいことに気づいた。


「ここ…どこ?」


そう。食料を探したり、美しい森の景色を眺めたりすることに夢中になっていて、帰り路をすっかり忘れてしまったの。土地勘もない、同じような景色が続く森の中で方角がわからないのはまずい。



時間がたち、すっかり空は夕焼の茜色に染まった。まだ少し白っぽい、美しい満月が空の端から顔を出し始めている。


「どうしよう…このままじゃ神様との約束を破っちゃう。何とかして夜になる前に、神殿に帰らなきゃ」


口には出してみたものの、どうやって帰ればいいのかは依然としてさっぱり。闇雲に足を動かせば動かすほど、森の奥深くにいっているような気がする。そうこうしているうちに、日は完全に地平線の下に隠れてしまった。明るく美しかった森は、今やすっかり黒々として、不安な気持ちが煽られる。


「「「「「「「「アオーーーーーーン!」」」」」」」」


物音一つなかった静かな森に、突如として木霊したのは、獣の声。もっと正確に言えば、オオカミの遠吠えだった。ざわざわ、ざわざわ。木がざわめいて、不穏な空気に体が強張ってしまう。その時、近くでうめき声とも叫び声ともつかない、不思議な声がした。どこか謳っているようなその声の主に、私はそっと声をかけた。


「貴方は、誰?」


近くの木の陰に隠れていたた声の主は、瞳を満月のように光らせた、カンラだった。私が呆然としている間にもカンラの体はだんだん光を増していき、その姿はついに眩しすぎて見えなくなってしまう。私は思わず目をつぶる。光が引いた時、目を開けた先にいたのはカンラではなかった。カンラがいたはずの場所にいたのは、


【嗚呼、君には知られたくなかったのに。だからダメだと言ったじゃないか。なあ、僕に捧げられた花嫁の、クイートよ。】


私の耳に飛び込んできたのは、目の前のオオカミから発せられていた


「どうして…?カンラは、オオカミじゃない!人間だよ、私と同じくらいの年の。カンラは、カンラは…」


私は思わず叫んだ。だって、カンラは私を助けてくれた。笑顔が優しくて、綺麗な銀の髪を腰まで伸ばしていた。金の瞳は、獣のものじゃなかった。ああ、でも…


「すごく、きれい。オオカミなのに、銀色で、月が地上に降りているみたい。神殿の絵画に描いてあった、月の神様みたい…」


オオカミのことは怖かった。でもそれと同じくらい、オオカミは美しかった。どこまでも輝く銀の毛並み。金に輝く、満月に似た瞳孔が縦長な瞳。ほっそりとしているけれど、威厳さえ感じる存在。すべてが見たこともないくらい、美しい。


【クイート。君は変わり者だ。僕を見て、みんな喰わないでくれと懇願した。命乞いをした。僕が対話を試みようとも、それを受け取る贄は終ぞいなかった。それにも慣れて、ようやく、独りを受け入れたのに。もう望むまい、人など期待を裏切るだけと納得しかけていたのに。どうして、僕をかき乱す?美しいと讃える?そんな目で、羨望の目で僕を見るな!やめろ、やめろ、やめろ!僕はカンラじゃない。カンパニュラだ!君が生贄としてささげられた、月の神だ!さあ、怯えろ!大地に泣き伏せよ!そうしてくれなきゃ、僕は、僕は…!】


カンラは、いや、神様は泣き叫ぶようにそう言った。恐れろ、怯えろと私に迫っているのに、恐れているのは神様の方みたい。そう思うと、不思議ともう、オオカミは怖くなかった。むしろオオカミは可哀そうにも思えた。だから私は、神様に近づいた。そして、神様の首のあたりをそっと抱きしめる。


「大丈夫。私は神様と話すよ。独りぼっちは、寂しい。私も、寂しかった。これから毎日、お話ししよう。神様、神様は綺麗だよ。見たことないくらい。カンパニュラ様は、私が変わり者でも花嫁にしてくれますか。」


一言一言、ゆっくりと、噛みしめるように。あたたかい首を抱きしめて、私はカンパニュラ様と話す。私はもう、この神様が大好きだった。優しくて寂しがりで、強がりなカンパニュラ様が。


【クイート。僕は神様なんて名ばかりの、化物なんだよ?こうして満月の夜はオオカミになってしまう。人にも獣にもなりきれない半端なナニカだ。普段だって、神の力を振りかざすと恐れられている。クイートなんていつだって、殺せてしまう。僕は化物だ。化物なんだ。それでも、僕と話そうって?いつまでそんな戯言をいうつもりだい?僕は信じないよ。】


囁くように、カンパニュラ様が言う。その声は震えていて、本当に泣き出しそうだった。頭を振り、いやいやをする子供のようなカンパニュラ様。それでも私は、カンパニュラ様を抱きしめたまま、しっかりと答えた。


「信じなくていい。これからいつか、信じてくれれば。神様のこと、私は怖がったりしない。カンパニュラ様は、私が知っている誰よりも優しくて、綺麗な神様だから。今日は、もうおしまいにしよう?私は逃げない。怖がったりしない。だから、少しづつ、私を見て。二人ぼっちの方がきっと独りぼっちより寂しくないよ。」


【嗚呼。今日はもう、終いにするか。…帰るぞ、神殿に。】


カンパニュラ様は、ふっと力を抜いたようにそう言った。四つ足で歩くカンパニュラ様の隣を私も歩く。神殿への道を歩きながら、月を見上げる。今日森の奥で、私は独りぼっちの優しい神様に会った。カンパニュラ様は少年のカンラと同じ、あたたかい心を持っていた。


そんな傍らの神様の存在に安心したのか、不意に眠気が私を襲う。極度の緊張状態で張り詰めていた意識がふっと途切れた。そのまま私は、気を失ってしまった。


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