月夜に揺れる、蕾の白薔薇(2)

「んん……」


微かなうめき声をあげながら、日の昇りきらないうちにのそりと体を起こした。地べたに横たわっていた体は、じっとりと湿っているうえに泥まみれで汚らしい。それでも私は、そんなことを気にしている余裕はなかった。


取り敢えず、井戸から水を汲んで。澄んだ冷たい水がキリリと喉を冷やしていく感覚で頭をはっきりさせる。寝起きの時より明晰になった思考で、今日の食料を捕獲するための算段をたてる。


当然だが、ここには私を助ける人はいない。母の味方しかいないのだ。だから私はお金を取り上げられても何も言えないし、からだがおかしくても働くしか生きる術がない。そんな状況であれば、ご飯を誰かに恵んでもらおうと考えるのは馬鹿のすることだ。私はこんなところで死にたくはない。


じゃあどうやってご飯を食べるか。結局はそこに尽きる。そして幼かった私は、草むらや森の中にいる獣や草を食べて凌ぐことを覚えたのだ。食べられそうなキノコや、トカゲ、蛇、野兎。罠で獲物が取れなければ、ヨモギなどの薬草を口にするしかない。私はゆがむ視界と揺れる脳を持て余しながら、這いずるように森へと向かった。


「やった、今日はお腹いっぱい食べられそう。」


森にほど近い場所に仕掛けていた罠を見て、思わず喜びの声を上げる。仕掛けた罠には、大きめの野ネズミがかかっていた。これをさばいて焼けば、かなりお腹が膨れるだろう。


森に落ちていた枯れ木を拾って、手早く火を起こす。そのあとにすぐ野ネズミをさばいて、誰にも見られないように急いで焼けた肉にかぶりついた。誰かに見られたらおしまいだ。食べているものは取り上げられ、からだを滅多打ちにされて働かされる。


何故なら、私が狩りをしていたのは神様の森だから。この村が昔から信じている、月の神様の森だから。そんな神聖な森を、私のような奴隷扱いの人間が穢していると知ったなら、村人は容赦なく私をとがめることだろう。


そう考えている間にも、口は肉を咀嚼して飲み込んでいる。久々に食べたまともな食事は、飢えたお腹を存分に満たしてくれた。


あっという間に終わってしまった食事の時間を名残惜しく思いながら、火の始末をして立ち上がる。今日はどんな仕事だろうか。楽なものだと嬉しいのに。いつも願うことをそっと頭の中で復唱しながら、すっかり習慣づいてしまった言葉をそっと口にする。いつも、夜に私を慰めてくれる、かの月に向かって。


「行ってきます。」


明け方、白んだ空に消え入りそうな白い月に、私はそっと目を向けた。




それは、気の迷いだった。今日の仕事は、大きなシカやイノシシをさばく仕事で。狩人の人たちが私に獲物を押し付けながら、こんな会話をしていた。


「なあ、知ってるか?向こうの山でトリカブトが生えたって。」


「二輪草と間違えて食ったやつが、泡拭いて死んじまったとよ。」


私が存在しないかのように、げらげらと下品な声で笑いながら、二人の狩人はそんな話をしていた。いつもならどんな話も右から左へ抜けていくのに、今日のその話はやけに耳にこびりついて、離れなかった。


「トリカブト、か。」


トリカブト。小さな紫の花を一つの枝に等間隔でつけている、毒草。植物の部位すべてに毒があり、その根は特に強い毒性がある。こんなことを知っているのは、前に猛獣を殺すときに使ったからだ。死んでも構わない私だからこそ、あの猛った熊の前に放り出された。あの時は失禁するほど心が恐怖で埋め尽くされていたので、あまり思い出したくない。


「お母さんにも、効くのかな」


気づけば、そう呟いていた。猛獣に効いたのなら、きっと人間にも効くはずだ。私は狩人たちが言っていた、トリカブトの生える場所に向かうことにした。


だって、もう限界だった。人でない扱いを受け続けることが。しつけと称して与えられる地獄の苦痛が。誰も助けてはくれず、むしろ嬉々として私を追い詰めるこの状況が。空腹に鞭を打つようなつらい仕事が。疲れていても心すら休まらないことが。日に日に酷くなる暴力が。


そして、生みの親を愛しても、私自身に愛が返ってこないことが。


総てが私を追い詰め、摩耗させていた。


私は、朦朧としたまま山に登った。狩人たちは、小さな泉の傍に生えていると言っていたはず。疲れ切った足を叱咤して歩くこと数十分、ついにその泉は見つかった。


ほとりに揺れる、小さな紫色の花が、毒々しいくらいに美しかった。


ぷちり、ぷちりと草をちぎる。ちぎったところからあふれ出ている汁に触れないように気を付けながら、私は山を下りて家へと帰る。途中に酒屋に寄ることも忘れずに。


「またお前か。どうせ一番安いのを一本だろ?あの人に飲ませる酒なら、もっといいもん買えるように働けってんだ。」


酒屋の主人に冷めた目で悪態をつかれながら、貧相な酒瓶を一本受け取る。私が差し出した数枚の銅貨を一瞥して、主人はふんと鼻を鳴らした。


家と酒屋の、ちょうど中間。夜も更け、誰もいない路地裏。私は、酒瓶の線をポンと抜いた。そしてその中にトリカブトを入れる。正確には、トリカブトから出てくる汁だが。あの猛獣にはかなりの量を使ったから、入れた汁は滴五個分だ。これなら、死ぬことはないだろう、多少体調を崩す程度だと思う。


「お母さん、これであなたは……」


私に振り向いてくれますか、とは言えなかった。だって母は私のせいで、この村まで流されたのだと知っていたから。わかっていた、私が母を不幸にしたと。それでも。


私を、一度でいいから、慈しんでください。


そんな思いで、家の扉を開けた。


今日はそういえば、新月だった。


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