月夜に揺れる、蕾の白薔薇(3)

「あー、かえってきたのねえ!はやくおさけよこせっての!」


今日の母はだいぶ出来上がっていた。すでに空の酒瓶があちこちに転がっている。今日は村の誰かからお酒をもらったみたいだ。


「ただいま帰りました。お酒はこれだけだけど、飲んでください。」


「はやくよこしなさぁい!あーこれかぁ。ひっく。」


母は私から奪うように酒瓶を受け取り、それを喉を鳴らして一気に飲み干した。私は、五月蠅い心臓を抑えて、母をじっと見る。いつも通りの、飲んだくれた母だ。何も、変わっていない。きっと毒が足りなかったのだ。やっぱりもう少し多めに入れておけばよかった。まあ、さっき証拠隠滅のためにトリカブトは捨ててきてしまったから、追加で毒を盛ることもできない。


失敗した、けれど私はなんだか肩の力が抜けてしまった。


これで明日からは、いつも通りの日常が変わらず待っていると確定したから。確かにその日常は、時に苦しくて時に辛くて、耐えがたいと思うこともある日常だけど。私にとってはいたって普通で、何の代わり映えもしないいつものことだった。


ふう、と一息ついて、散らかされた部屋を片付けて湯桶と布を準備する。母が飲んだくれてべろべろに酔っているときは、玄関で寝ても怒られない。今日は久々に、冷たい夜風を気にせずに眠れそうだ。


真っ暗な空は、星すらも覆い隠す曇天に変わっていた。


翌朝。日の出とともに私は目を覚ます。村で一番早く起きて、一番早くに働きだすのが私だ。そうしなければ、躰が痛くて動かせなくなるほどの折檻が待っている。だから、私にとって寝坊という概念はなかった。


静かな朝だ。いつもと変わらない、誰の息遣いも聞こえない、いつも通りの…


いや、かすかに違う。なにか、引き攣れたような呼吸音がする。とても小さな音だけれど、かすかに、家の奥の方から。


家の、奥?


「おかあ、さん?」


もしかして、もしかして。早鐘を打つ心臓、嫌な汗が背中をつたう。無意識に早くなる呼吸を押さえつけるように息をひそめ、私は廊下の先の部屋を開けた。


台所と居間が一緒くたの狭い場所。そこに大きな布団を引いて、母は寝ていた。いや、倒れていたと言う方が正しいだろうか。痙攣をおこし、躰はビクビクと跳ねている。壊れた玩具のようなその動きに、喉がひゅうっと嫌な音を立てた。


「ど、どうして?だって、失敗したはずなのに……」


私は部屋の入口にへたり込み、ただ息を必死に吸い込んだ。息を吸っているはずなのに苦しくて、どんどん息が吸えなくなる。目の前が徐々に霞んでいく。暗闇に暗転する一瞬前の視界に、完全に動かなくなった母がちらりと映った。


そのあとのことは、あまり覚えていない。いつまでたっても仕事をしに来ない私を、折檻もかねて呼びつけに来た村人が、倒れている私と母を発見したそうだ。その場で救命措置をされたのは、母だけで。私は捨て置かれていたそう。必死の介抱も虚しく母の死亡は確認されて、村中が悲しんだ。


地べたに適当に放置されていた私は、その日の夕方ごろに目を覚ました。茜色に輝く夕日は、悲しみに沈む村をいつも通り美しく染め上げていた。私はただ茫然と、独りきりで地べたにへたり込んでいた。


涙は流さなかった。ただ、疲れ果てていた。


「お前がやったんだろう!」


「お前のせいだ!」


「親を殺しやがった!なんて親不孝者だ!」


夜、私が目覚めたと知ったいろんな人に罵倒された。石がたくさん投げつけられる。唾を吐かれ、殴られた。あちこちに痣が増え、口内や肌が切れて血がにじむ。その暴行と、抵抗も弁明も許さない理不尽さに、私の中で何かがぷつんと切れた。


傍にあった、投げつけられた石の一つ。小さいけれど鋭利に尖ったそれを、素早く手に取る。そのまま、力一杯滅茶苦茶に振り回した。何も考えられなかった。ただ、脳が真っ赤に染まっていた。


誰も助けてくれなかった。誰もいつくしんでくれなかった。誰にも愛されず、誰からも疎まれた。そんな状況で、これまで耐えてきた。私は、耐えた。お前たちは、耐えられないだろう?きっとそうだ。蔑むことに慣れているお前たちは、私のような状況に置かれれば、嘆くか死ぬかして逃げるだろう?私はそれも許されなかった。その程度の自由すらなかった。


親不孝?あの人が私に何か与えてくれたことなんてなかった!それで親不孝だって?冗談も大概にしろ!そうだ、確かに私が殺した、けれど私は死にたくなかった!あの人が生きている限り、私は死ぬまで使いつぶされるしかなかった!それをやめたり改めたりしてくれるような人じゃなかったから。だから、殺すしかなかった!


どれだけ惨めだろうと、どれだけ罪深かろうと、私は生きたかった!


はあ、と上がった息を整えもせずに震える体を抱きしめた。周囲には、あちこちから血を流した人々がどこか呆然と私を見上げていた。


私の手に握りしめられた小石には、紅いしみがべったりとくっついていた。


「すみませえん、こちらに空き家なんて……おっと、お取込み中でしたか。」


そんな中、間延びした美しい声がした。私はようやく躰の硬直が取れ、村人たちを見下ろしていた視線をどうにか上にあげた。


視線の先には、ぼろぼろの旅装束を纏った、美しい人がいた。


漆黒の髪は少し跳ねたくせっけで、綿毛のように柔らかそうで。大きくまっすぐこちらを見る瞳は黒曜石のように煌めいている。のんびりとした話し方だけれど、鈴を転がすような少し高めの澄んだ声をした人。


美しい人は、ゆっくりと笑い、こてんと首を傾げた。


「私、旅の者でして。一夜の宿を恵んでいただきたいのです。」


それが、ノルマリスさんとの出会いだった。


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