月夜に揺れる、蕾の白薔薇(4)

母が死んだすぐ後に、村には冬がやってきた。山々は雪に閉ざされ、全ては白銀に染まる。貧しい人々にとっては、つらい季節だ。この村だって、決して裕福じゃない。みんなで身を寄せ合い、冬という厳しい季節を耐え忍ぶのだ。


そんな時期にこの村に来たせいで、ノルマリスさんは村から出られなくなった。雪が解けるまでの四か月間、この村にとどまると言う。


ノルマリスさんは不思議な人だった。旅人だから、異国や遠い土地の出来事をたくさん知っている。彼が話してくれる物語はどれも新鮮で面白くて、村の人たちは皆夢中で聞き入った。彼は賢くもあって、文字を教えていることもあった。自分の名前が書けたと嬉しそうにしている子供たちもたくさんいた。


そんななか、私は孤立していた。あの日、私が初めて村の人に抵抗した。その時の私の行動が、村人たちにわからせたのだ。今まで馬鹿にして、こき使っていた奴隷の少女は、誰かを害することができるのだと。


そのおかげで、前のような理不尽な行いはなくなった。まっとうな畑仕事だけで、きちんとお金がもらえる。けれど私はずっと避けられていた。


当然といえば当然だ。だって私は「殺人者」だから。誰かを狂気をもって殺せる、そういう異質さは村の中では邪魔者でしかない。特に、閉鎖された、頭が凝り固まった連中ばかりのこの村では。


けれど私は、前より幸せだった。もう蔑まれないし、躰を痛めつけられることもない。ご飯はきちんと食べられて、寝る場所だって屋内になった。母が死んだから、家一軒をまるまる私が使える。お風呂にも入れるようになったし、傷は治ったからもう痛くない。


変わらない、以前よりも心安らぐ暮らし。それは、私が必死の覚悟で成した「殺人」という罪と引き換えに手に入れた、どこか空虚で現実味のない人生だった。


今日はもう遅い。雪が降り積もった道を、村総出で除雪したからだ。月明かりを頼りに作業をして、久々の重労働に体は悲鳴を上げている。


「ねえ、君はさ。苦しくないの?」


不意に、月夜の人気のない道に声が落ちた。ふりかえると、そこにはノルマリスさんがただ立っていた。黒いくせ毛を夜風に揺らし、白くて透き通るような手がこちらに伸ばされている。


「君の肩でも叩いてから声をかけようかと思ったんだけれど、君があまりにうつむきながら歩くものだから。君に触れそびれてしまったんだ。ごめんね、急に手を伸ばしたりなんかして。全く失礼な行いだったよ。」


ノルマリスさんは自嘲気味にそう言って、気まずそうに手を引っ込める。そして、おもむろに私との距離を詰めた。一歩、二歩。ゆっくりとした、けれど逃げることを赦さない足取りで、とうとう私との距離は一寸ほどになってしまう。背の高い彼は私を抱え込むように見下ろした。その顔は月の光が逆光になってしまって、よく見えない。


「ねえ、いいの?君は愛されることを知らない。慈しみも受けず、そうして一人ぼっちで。ずうっとこの村で生きていくのかい?君のことを、僕はよく知らないけれど、誰ともかかわらなければ、君の心の傷はいずれ腐って治らなくなる。」


わからない。心なんて、わからない。踏みにじられたから捨てた。痛いのも、苦しいのも、つらいのも、もうたくさんだった。それだけだった。体の傷は治ったし、痛い所なんてもうどこにもない。もう、わからなくなってしまった。ああ、そうか。わからないことは、腐っていることなのか。じゃあ、私はもう手遅れ。


ああ、痛い。手遅れなのが、どうしようもない絶望だった。


絶望は、心を切り裂いていく。血が滴るように、痛みが体を埋め尽くす。


「もう、わかりたくない。」


それだけを、息も絶え絶えにこぼした。それが今の私の偽りのない本心だったから。感情なんて、痛みなんて、もうたくさん。何かを感じたところで、痛みしかないのだったら、感じない方がましだ。


「そう。じゃあ、じゃあさ、君は。このまま、心を腐らせたいのかい?きっと違うだろう?だって、本当にそうなのだとしたら、わかりたくないのなら。きっとこんな風に泣いたりしない。」


泣く?それは誰が?頬をあたたかな滴がつたっていく。私が、泣いている?


そう、泣いている。だって悲しい。心がなくなるのは悲しい。殺したくもない、腐らせたいわけでもないのだから。でもどうすればいい?誰も私を愛してくれない。私が愛した母も信じたかった母も、もういない。私の愛はいつだって一方通行だ。


「ねえ、私はどうしたらいいの?」


私はノルマリスさんを見上げてそう問うた。どうしたらいい?救いのない道を、救いがないとわかっていながら進むことしかできないとき。分かれ道もなく、別の道につながることもない、曲がりくねった一本道しか歩けないとき。私はどうしたらいい?


「ねえ、教えて、」


思わず、泥にまみれた手で縋った。途方に暮れてしまって、どうしたらいいかわからなかった。


「ねえ、君は、幸せになりたくない?」


ノルマリスさんは、浮かべていた微笑みを消し、真剣な表情で私の泥まみれの手を握ってくれた。月明かりに照らされた、白くて傷の無い、綺麗な手だった。私とは不釣り合いなほど美しい手は、まるで月の神様のような手に見えた。


「なって、いいの?私も。」


わからなかった。不幸を望まれたことしかなかったから。私は、母を殺して、村中に嫌われていて、それでも惨めに生きたいと這いずっている。そんな私でも、いいの?


「ああ。異国にはこんな神様がいるんだ。『人はみな平等で、善人はみな身分に関係なく神に愛されている』と教える神様だ。神様が言うのだから、誰かに愛されるのに身分も何も関係ない。幸せになるのだって同じことだ。」


「そうなの?本当にそう?」


「ああ。ねえ、君は幸せになりたい?」


「なりたい。私、幸せを知りたい。」


私はいつの間にか、地面に両膝をついて、祈るようにノルマリスさんの手に縋っていた。それが正しい姿勢のような気がして。


月光で相変わらず表情は見えなかったけれど、ノルマリスさんが微かに微笑んだのが分かった。誰かが笑いかけてくれるということは、昼間の日の光のような温かさを私に教えてくれた。

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