月夜に揺れる、蕾の白薔薇(5)
柔らかで薄明るい月明かりの中、私とノルマリスさんは肩を並べて歩いていた。
「君の名前は、なんていうの?」
ノルマリスさんが尋ねる。けれど私は、言葉に詰まってしまった。ノルマリスさんを信用できないわけじゃないし、私を気にかけてくれる人には精一杯の誠意で応えたい。そう思っても、私は何も言えなかった。
だって、私には名前がなかったから。母も、村の人も、私を人だと思っていなかったから、当然名前でなんて呼ばなかった。お前、とかおい、とか。そういう風にしか呼ばれたことがない。
私だって、できることなら名前を名乗りたい。でも、無いものは、無いのだ。
唇を思わず噛みしめた時。ノルマリスさんが不意に笑った。小さな蕾が花開くような、雪解けの後の梅のように美しい微笑みだった。
「ねえ、もし、こたえたくないのなら。僕が呼びたいように呼んでもいいかな?そうだな、どんな名がいいだろう?金に輝く髪にあやかろうか、それとも抜けるように真白い肌か。いや、瞳が一番だな。月のように美しい、その銀灰色の瞳。その瞳にふさわしいものが良いな。そうだ、昔聞いた、花があったな。月夜にしか咲かない異国の花が。その花の名をとって、クイート。うん、これにしよう。」
君は、今からはクイートだ。
そう微笑んで小首を傾げるノルマリスさんが、なんだかとても眩しく見えた。
月の光に照らされた、二人きりの道で。私は生きてきて初めて、誰かに人として認識された。そのことが、すごくうれしかった。
そのあとは、ノルマリスさんの住んでいるところに一緒に行って、いろんな話をした。彼が今まで旅してきた異国のこと、様々な人との会話、たくさんの知識。私が知らなかった世界を、彼はたくさん教えてくれた。楽しい時間は、私の疲れも全部吹き飛ばして、心を温かさで満たしてくれた。静かな夜の静寂に凛と響くノルマリスさんの声も、とても心地よいものだった。
そんな時間を過ごして、しばらくたった時。
「ねえ、クイートはさ。僕のところで一度、幸せになってみたくない?」
不意に、ノルマリスさんが言う。
「さっきさ、君は幸せになりたいと言っただろう?だけど、今の君では、幸せそのものを理解していない君では、すぐに幸福を手に入れるのは難しいと思ったんだ。だから、僕と一緒に暮らさないかい?僕なら、君になんでも教えてあげられる。お金も、今までの分があるから困っていないし。ねえ、どうかな?」
私は少し返答に困ってしまった。確かにノルマリスさんは物知りで、私に名前をくれた初めての人で。でも会ったばかりでよく知らない人だし、村の人とは全然違う態度に戸惑ってしまうし。けれど、今まで接してきた人とは全然違う優しい人だ。
彼なら、信じてもいいかもしれない。さっき、月明かりに照らされていたノルマリスさんはとてもきれいだったから。
「ノルマリスさんの、迷惑じゃないなら。」
精一杯しっかりと答える。ここまで私に親身になってくれる人には、誠実でいたかった。私の答えに、ノルマリスさんは花の蕾が綻ぶように笑った。
「うん、ありがとう。君のことを、必ず幸せにするから。」
その日はノルマリスさんと一緒に布団に入った。背後から抱きしめられたのには驚いたけれど、ノルマリスさんのぬくもりはとても安心できる暖かさで。私は夢も見ずに眠りについた。
翌日から、ノルマリスさんのところで暮らすことになって。初日だけでも、私にとっては驚くことばかりだった。
まず、働かなくてもいいし、ご飯も洗濯も掃除もしなくていこと。母は私が働くのは当たり前だと言っていたし、村の人もそういう態度だったから、私にとっては一番の驚きだった。
「君はまだ子供なんだから、家で遊ぶなり楽しく過ごせばいいんだよ」
とノルマリスさんは言っていた。
次に、あたたかいご飯を一緒に食べること。食卓を囲んで、穏やかに話しながらご飯を食べる。それが「普通」であるのを教わった。初めて二人で食べたご飯は、何度も食べたことのあるおかゆとおかずだったけれど、どんなごちそうよりもおいしかった。
ノルマリスさんはずっと微笑んでいて、楽しそうに私を眺めていた。けれど私は、どうしてもノルマリスさんを信じられなかった。私は嫌われ者で、罪人で、働かなければ意味がない人間なのに。そんな私を引き取って、何がしたいのだろうと疑ってしまう。旅をしているということと、名前しか知らないというのも信じられない点ではある。私はもう、誰かに期待したくなかった。
「クイート、何が食べたい?何がしたい?叶えられるなら、僕はできる限り叶えるから。何か望みはある?言ってごらんよ。」
そういわれても、したいことなんてわからない。生きていられれば、それでよかったから。それに、そう聞いてこられると、信じるのが余計怖くなる。私が決めていいことも望んでいいことも、今まで存在しなかったから。
「…何も。」
だから私は、首を横に振ることしかできなかった。
そんな日々を過ごして、一か月が経とうとするころ。私はどんどん幸せが怖くなっていた。暖かい真綿に包まれたような、穏やかな暮らし。手を伸ばせばいつだって優しさが傍にあって、痛みも恐怖も全くない。それが「しあわせ」であると言うのなら。
その「しあわせ」はとんでもないものだと思った。
だって、心にしみわたって、今までの苦痛を洗い流してくれる。つらかったことを涙に溶かさなくても、優しさで溶かしてくれる。そんなものを知ってしまったら。
戻れなくなる。
もう、失いたくない。この「しあわせ」を。なくしてしまうことがこんなに恐ろしいだなんて知りたくなかった。だから私は「しあわせ」が怖い。なくした時、私がどうなるかわからないから。
けれど、「しあわせ」のその先も知りたかった。だって今でさえ、こんなに暖かいから。きっと「しあわせ」のその先はもっと凄いものなんだろう。それを、知りたい。
だから、どうしても確かめたかった。私が「しあわせ」のその先を手に入れても、それをなくさないかどうかを。
「ノルマリスさん、どうして私を引き取ったのですか?」
私を引き取る理由があったなら、その理由がなくならない限り、私は裏切られずに済む。大丈夫、耐えることには慣れているから、だからお願い、私が「しあわせ」をなくさない理由が欲しい。
祈るような気持ちで、私はノルマリスさんを見つめて返事を待った。
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