月夜に揺れる、蕾の白薔薇(6)

私の問いかけに、ノルマリスさんは暫く答えなかった。少しうつむいたまま、何も言わない。痛いほどに静かな時間を少し過ごした後、ノルマリスさんは絞り出すような声で言った。聞いたことのない、苦しそうな声だった。


「ねえ、クイート。これから話すことは、全部僕の正直な気持ちだ。きっとクイートは嫌な気持ちになるだろうし、僕があまりにも身勝手だってわかると思う。それでも、聞いてくれるかい?聞きたいと思うかい?」


「はい。聞かせてほしいです。」


私は迷わなかった。どうしても「しあわせ」を失いたくなかったから。何か理由がないと、安心できなかったから。だから、ノルマリスさんをまっすぐに見つめた。


「……わかった。」


そういうと、ノルマリスさんは柔らかな声音でこんな話をしてくれた。



僕はね、もともとただの人間だった。どこにでもいる、百姓の家の三男坊。そこら辺の子よりも少し頭が良いだけの、いたって普通の人間だった。


でもね、ある日恋をしたんだ。お相手は、僕のいた村の近くにある、都市国家の麗しの姫君。僕なんか目に留まることもないほどの殿上人さ。僕はその人に夢中になった。流れるような金の長い髪、月を思わせる銀灰色の瞳、真っ白で美しい肌、全てが完璧で、微笑む姿は天女のようで。…はは、虚しいな。どんなに言葉を重ねても、彼女の美しさにはかなわないのに。


彼女に恋焦がれ、日々を過ごしていたある日のこと。お城からお触れが出た。「賢いものを役人として取り立てる」ってね。僕はこのお触れに飛びついた、勉学はほかの人より得意だったし、役人になれたらお金だってたくさんもらえる。貧しい百姓の我が家の家計だって潤うはずだ。


でも何よりうれしかったのが、姫君をもう一度見られるかもしれないということ。あの美しく可憐な微笑みをもう一度見たい。その一心で、僕はお城に旅立った。


長くなってしまうからここでは省くけれど、結論から言えば僕は役人になれた。卑しい出自の僕だったけど、勉学の才能は本物だったんだ。僕は宰相のところで、簡単な雑務を任されるようになった。その仕事の一つに、姫君への応対があったんだ。


姫君は当然、次の国王を支えるお方。政治のことを勉強しに、宰相のもとへやってくることだってある。けれど宰相も忙しいから、姫君に待ってもらうこともしばしばあった。その時に、姫君を退屈させないための余興のような人間が僕だった。


嬉しかったよ。恋焦がれた相手と向かい合わせに座って、美味しいお茶とお菓子を出して。そうして、僕はたくさん姫君と話すことができた。僕は幸い、仕事面でも優秀だったから、姫君との会話でも上手く立ち回れた。そうして話すうち、僕は姫君に気に入られたんだ。


話し相手として姫君の部屋に呼ばれたり、一緒にお茶会をしたり。姫君と友人のように過ごすうちに、僕の恋心は抑えきれなくなっていった。


「ずっと、平民だったころからお慕いしておりました。」


そう告げたのは、役人になってから三年目の真冬の時。僕は断られることを前提として、姫君に想いを告げた。報われることなんて期待できない、淡い恋だったとあきらめて。でもどうしても、この恋心への答えが欲しくて、僕は告白した。いや、違う。次に進むために、姫君との恋を終わらせたかったんだ。叶わないと知りながら、どんどん強まる想いを抱えきれなかったんだ。僕が臆病なだけだった。


「あら、知っていたわ。でもね、わたくしも好ましく思っていてよ。」


悪戯っぽく笑って、姫君は僕の腕に擦り寄った。僕は情けないことに硬直してしまったよ。まさか、叶うなんて、報われるなんて思ってなかった。けれど現実は小説のように奇妙なもので、僕はいつのまにか姫君の心を手に入れていた。


しあわせだったよ、数年間はね。僕は役人としてかなり昇進して、次期宰相と言われるまでになった。姫君と釣り合わないなんてこともなくなって、本当に手の届きそうなところに、夢にまで見た姫君がいた。


けれどそんな幸福も、長くは続かなかった。姫君は他国に嫁ぐことになったんだ。男児が生まれてね。跡取りができたから、姫君が国内にとどまる理由はなかった。かなり遠くの、年も離れた王のもとに嫁ぐための縁談はとんとん拍子に進んだよ。僕は呆然として、ただ与えられた仕事を機械的にこなすばかりだった。いくら偉くなっても所詮は役人。王に物申すなんてできなかったから。


そしてとうとう、姫君が嫁ぐ前の晩。僕は、姫君に呼び出された。


「わたくし、嫁ぐなんていやよ。でも、お父様や国の為には、やらねばならないとわかっているわ。頭では理解できるのに、心がついていかないの。……お願い。私と一晩を共にして。本当はあなたが好きなのよ。だから、一晩だけ。今日だけでもいいから、あなたのものになりたいの。」


姫君の部屋で、涙ながらに懇願されて。姫君は僕を抱きしめて、そのまま閨へと連れて行った。僕は言われるまま、彼女を抱いたよ。求められるままに与えて、朝方までずっと。そうして、朝日が昇った後。姫君は晴れやかに笑って、他国へと旅立った。


訃報が届いたのは、それから三日後。姫君は自害した。他国へと向かう馬車の中で、自ら毒を飲んだんだ。馬車の中で死体となっていた彼女のそばには、たくさんの手紙が落ちていたそうだよ。遺書もあったし、国王や側近に向けた手紙もあった。死んだ理由は、嫁ぎたくなかったから。それを読んだ国王は、それならば縁談など破棄したのに、と泣いていたよ。


姫君が遺した手紙の中には、僕の分もあったんだ。なんて書かれていたと思う?


「あなたのものになれてうれしかった。これでもう心残りは何もない。願わくば、あなたの幸せが末永く続きますように。先に黄泉の国で待っているから、わたくしが知らない城の外の話をたくさん聞かせてほしいわ。いつもあなたが話してくれた市政の話は、わたくしにとって新鮮で、愉しいものだったのよ。」


僕は、役人をやめた。家にはじゅうぶんすぎるほどの仕送りをしていたし、もう国にいる理由がなくなってしまったから。姫君がいないなら、どれだけ偉くなったって意味がないからね。そして旅人になった。異国の話もたくさん聞いたし、摩訶不思議なこともたくさん体験した。そうして、死が迎えに来るのを待っている。


君はね、僕が失った姫君にとてもよく似ているんだよ。美しく整った外見も、純真無垢なあり方も、ちょっとした仕草の癖も、話し声も。僕がこの村に来たあの晩、血に塗れて立ち尽くしていた、憔悴しきった君の姿。あの姿に、僕はつい姫君を重ねてしまった。月明かりの中のクイートは、姫君によく似ていた。


僕の心は、今だって姫君に捧げたままさ。きっと死ぬまで、それは変わらない。けれど、姫君には死ななければ会えない。僕はそれに耐えられなかった。もう一度会いたい、あの声を聞きたい。そんな思いを抱えっぱなしだったところに、クイートが現れた。姫君によく似た、生きている存在が。


わかってるさ。歪んでいる。でも重ねずにはいられない。ごめん、本当にごめんね。僕は、クイートを引き取ったんじゃない。「姫君に似ていた君」を、引き取ったんだよ。自分勝手で傲慢で浅はかで、見下げ果てた動機だろう?蔑んでくれても、罵倒したってかまわない。けれど、お願いだよ。どうか僕に、もう一度あの微笑みを…



そう言って、ノルマリスさんは口を閉ざした。いつの間にか日は落ちて、夜の闇と静寂が空気には満ちていた。私もノルマリスさんも、何も話さなかった。


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