月夜に揺れる、蕾の白薔薇

ああ、苦しい。痛い。疲れた。


そんな言葉が、当たり前のように脳裏をかすめて消えていった。見下ろした自分の躰には、大小新旧を問わない無数の痣や傷跡が残っている。それだけじゃない、今日も働かなければ、母は今日も私を嬲るだろう。


地べたで寝るせいで軋む体を引きずって、今日も働きに出る。仕事の内容はまちまちだ。肥をまいたり、動物を殺して裁いたり、棺桶を埋めたり。いわゆる「ほかの人がやらない奴隷のような仕事」が私の役目だった。日が昇らないうちから、夜も更けるまで働き、少しばかりのお金をもらって家へと帰る。


その家も安心はできない。母はいつも不機嫌で、気まぐれに私に暴力をふるう。


「あんた、私に似て顔だけは整っているわね。大事にしなさい、男をとれるようになったら一番に顔を売り物にするんだから。そうじゃなきゃこの大きな目、とっくに潰しているのにねえ。」


かと思えば、こんなことを言いながら私の頭を優しくなでることもある。本当に何を考えているのか理解できない人だ。


今日は比較的楽だった。村人が最近死んで、葬儀が済んで棺桶に入った。だからその棺桶を入れるための穴を掘る、それだけで済んだ。深い穴を掘るのは腕が痛くて大変だったけど、それよりも大変なことをいくらだって思いつくから、むしろ腕が痛いくらいで終わるマシな仕事だったと思う。


もう月は高く昇っている。夜道が煌々と照らされていて歩きやすい。私は体を引きずるようにして、細く開けた家の戸に体を滑り込ませた。


「遅い!お酒は?買ってきたんでしょうね?金がないなんて言わせないわ!あんたのせいで私は全部失ったの!それなりの暮らしも、幸せも、全部!親も知らない子供を産んで、私は不幸だわ!早く、家の物を片付けなさい!この化け物!」


ああ、最悪だ。母が私を化物と呼ぶとき、それは母の機嫌が恐ろしく悪いことを表している。私は今にも倒れこみそうな体を叱咤して、母の前にひざまずいた。


「ごめんなさい。お酒はこれしか買えませんでした。家のことは、今からやるから、できるだけ早くするから、許してください。」


「ふん!これぽっち?あんたったらまともに仕事もできないのね!金を食いつぶす穀つぶしだわ!ほら、早く手を動かしなさいよ!そうね、今日は〈お風呂〉で許してあげるわ、だからほら、私の機嫌がもっと悪くならないうちに早くしなさい!」


「…はい、お母さん。」


私は何も口答えせず、散らかされた酒のつまみを片付ける。そのあとは脱ぎ散らされた服を洗濯し、綺麗に干して。手が切れそうなほど冷たい井戸水をくんで汚れた食器を洗い、母の為に残りの水で人肌くらいの暖かさのお湯を沸かす。その後、もう一度氷のような井戸水を桶にくんで母の前に差し出す。そして再び、ひざまずいた。今度は桶を家の外に置き、私自身も戸の外にひざまずいている。


「終わりました。なので私を、〈お風呂〉に入れてください。オネガイシマス。」


最後の方は少し声が震えた。けれど母はそれには気づかず、桶の冷たい水を盃でくんで私に頭からかぶせる。ばしゃり、ぱしゃり。次第に私は冷たい水でしとどに濡れ、それでも母の前にひざまずき続けた。ばしゃ、ばしゃ。母は狂ったように冷たい水を私に投げつける。着ていたぼろきれのような服がすっかり肌に張り付いたころ、母は桶の残りの水を全部一気に私にかけて、私の目の前で家の戸を閉めた。


「明日の朝までそこで体を乾かしてなさい!ああもう、あんたのせいで私まで濡れたじゃない!明日はもっとお酒買ってこないと承知しないわよ!あんたさえいなけりゃ私はこんな場所で安酒なんか飲まなくて済んだのに……」


母はまだ機嫌が悪そうだったが、家の中へと戻っていった。物音も母の声もしなくなったところで、私は体を急いで丸める。服も脱いで、たっぷりと冷たい水で濡れたそれを絞る。こうしておかないと、あとでもっと体が冷えるのだ。震える手で服を絞った私は、風通しの悪い少し湿った地べたに体を押し付けた。


〈お風呂〉とは母の折檻の一つだ。これをされると、そのあと数日は体が悪寒に襲われ意識が朦朧とする。それ以外にも、のどの痛みや咳が出ることもある。仕事もろくにできなくなることが多く、どうしてもこの折檻だけは苦手だった。


ほう、と詰めていた息を吐き出して、少し暖かく感じる地べたに頬を摺り寄せる。くっつけている部分が仄かにぬくもりを返してくれているようで、思わず口をついて声が漏れた。


「お母さんが抱きしめてくれたら、こんな感じだったのかな……」


呟いて自嘲する。私は母を不幸にした忌み子なのに、そんな風に抱きしめてもらうことなんてありえないはずなのに。少しだけ、淋しくなってしまった。目から、こぼすまいとしていた涙があふれる。


いや、そうじゃない。きっと、母の愛が欲しくなったのだ。


そう気づいてしまうと、余計に悲しく寂しい気持ちが募る。それはどんなに望んでも与えられることはないのだから。それがわかっているからこそ、こうして人目につかない月夜に私は泣くのだ。


「ひぐ、うぅっ……誰か……」


泣いている場合じゃない。早く寝ないと。明日の起床時間までどのくらい休めるだろうか。そう思えば思う程、あふれ出す涙は止まらない。


「お月様……助けて……」


泣き疲れて眠りそうになる刹那、自分の声がそんなことをつぶやいた気がした。

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