蕾の白薔薇(4)

僕はただ黙って、少女の話を聞いていた。そして、こんなにも綺麗な人間がいるのかといっそ感心すらしていた。


少女は聖人だ。見た目の美しさも相まって、思わず僕は少女にはるか遠くの天に住まう天使を重ねてしまう。そのくらい、少女は優しすぎて、綺麗すぎた。


自分が死ぬとわかっていながら、決して健康ではない体で旅をした。重い捧げものをもって、ろくに暖もとれない森の中を長いこと歩いて。そして神にすら悟られないように、明るく元気そうに振舞って。


どこに、そんな力が残っていたのだろう。改めてじっと見た少女の躰はあまりにもやせ細っていて弱弱しい。


【君は、こんなにやせ細って弱っていたんじゃないか!まさか、いつか死んでしまうまで、ずっと気丈に振舞う気だったのか?そんな、自分の体を鑑みることすらしないのが、君にとっての優しさなのか?そうだとしたら、君は、あまりに綺麗すぎる。】


思わず、そんな声が漏れた。はっと気づいて顔を上げると、そこにはただ笑う少女がいた。少女はどうしようもなく切なそうに、悲しそうに笑っていた。


「神様。私、わかっていたんです。自分の躰ですから、もう一年も持たないということがわかっていました。それでも、最後まで、私らしくありたかった。今まで死をどこか異世界の物のように考えていた私。明るくて元気で、病気なんて悟らせないような、理想の私でいたかった。それに、こんな貧相な弱った躰も、今までさんざん病に抗った証ですから。そんな私を、私自身が認めてあげたい。どれだけ死に損ないの躰でも、今まで生きてきた、大切な、私だから。」


僕が今まで見たどんな人間よりも、強い少女だった。そんな体すら、そんな思いすら、自分の中に抱えておけるなんて。僕は少女に強い興味を持ち始めていた。今までの生贄とは全く違う、光り輝くような強い心を持った少女に、どうしようもなく惹かれ始めた。でもこの、胸を騒がせる感情を言い表す言葉を、僕は知らない。


【ねえ、明日になったら、君のことがもっと知りたい。今日はもうお休み。ほら、こんなに体を冷やしちゃ病が悪化するばかりだ。さあ、横になるといい。】


へたり込んだままだった少女を助け起こし、敷き布団にそっと横たえる。可哀そうなことに、横抱きにして運んだ体はあまりに細く、軽かった。腕に触れる背中から、ぼこりと浮いた骨の感触がする。布団に横たえると、疲れ切った顔で微笑んだ少女はそのまま気絶するように眠ってしまった。そっと撫ぜた頬は少し赤く色づいていて、微熱があるのかもしれなかった。


もうすぐ僕も化物になる時間だ。満月がそろそろ天の頂へと昇るだろう。そうなれば僕は結局、独り苦しんで夜明けを待つだけだ。それでも、姿をさらす危険を冒してでも。どれだけ孤独が怖くても。


今はただ、この綺麗な少女の傍に居たかった。


胸が苦しい、あたたかい、痛い。なんだ、なんだ、なんだ。知らない。心地よい、気色が悪い。胸がかき乱される、この熱はどこにも行き場がない。


もうすぐ、化物になってしまうのに。変わり果てた人ならざる姿を見られるわけにはいかない。変わっていく手始めのように光りはじめる眼を見られるわけにも、いかない。もしかしたら、理性が突然吹き飛んで少女の首に己が牙を突き立てるかもしれない。そんな思考が頭をぐるぐるとかき乱す。


僕はそっと、眠る少女の手を握る。白くて柔く、でも骨ばかりがあるような華奢な手だった。この小さな、細い手で、どれだけの物を抱えていたのだろう。


僕は、名残惜しい気持ちを振り払って部屋を出た。少女の美しい金髪が、少女の身じろぎの拍子にパサリと一筋こぼれた。


そのひと房の髪が、雲間からこぼれる日光のように眩しく見えた。




【はあッ、あっ…く、そ。があっ!】


月が昇るにつれて、僕の躰は痛みと熱を訴える。そろそろ満月が天頂に届くかというころ、僕は無様に自室の床にはいつくばっていた。


伸ばした手は、力なく床をひっかくだけ。力の入らない足では、立つことさえままならない。変形し始めた牙が頬の内側を軽く引き裂いていく。そのせいで、痛みにあえぐ口からこぼれる唾液は、少し赤みが混じっていた。


それだけではもちろん終わらない。皮膚が泡立ち、銀の獣の体毛が人だった肌を塗り替える。頭蓋骨が引っ張られ、獣の形に直されていく。耳の形も、瞳孔の形も、爪の形すらも人の形から外れていく。


いつまでたっても慣れ親しむことのできないこの感覚は、ただただ僕に苦痛を植え付けてくる。僕の姿は満月の動きのようにのろく、満月の輝きのように鮮烈に変わっていく。僕にできるのは激しい痛みに歯を食いしばり、口内にあふれる鉄の味を飲み下しながら、ただこの激しい痛みを耐えることだけ。


次第に、喘ぎ声が獣の唸り声へと変わっていく。言語は脳のどこかで潰れ、意味をなさない濁音だけが喉から滑り落ちる。


僕は、床をかむようにして声を抑えた。


【あの子に、悟られる、わけには…】


満月が沈むまで、あと六時間。


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