蕾の白薔薇(5)

夜のとばりはとうに降りきっている。普通なら、明かりすらないこの部屋も真っ暗になるはずだ。ただ、今宵に限っては、この部屋は昼もかくやという明るさで満たされている。


【ぐ、あっ……があああああああ!】


僕は体の内側で暴れまわる痛みを、必死に噛み殺す。噛みしめた唇の間から、声にもならない唸りが漏れ出ていった。光る瞳のせいで、視界が真っ白にとんでいる。静かにしんしんと冷えている夜には、苦悶の声が押し殺したように虚しく響くのみだ。


そんな中、僕の躰はおぞましいものへと変わっていく。大きな狼に変貌していく自身は、ぐにぐにと不快に脈打っていて。


嫌悪感で吐き気がした。自分が嫌いでたまらなかった。


あの子に悟られないように。気づかれないように。せめて神だと思ってもらえるように。僕は必死に叫びだしたい痛みを押し殺す。


だって、「神様だ」って。あんなに無邪気に、僕を信じてくれていたあの子を、僕は傷つけたくなかった。ふがいないくらい無力な木偶の神の僕だけれど。それでもそのくらいは、今宵の苦痛をあの子のために、人間の為に我慢するくらいなら。


できる気がしたんだ。あの子の為なら。


そんな思いで永遠にも感じる苦痛を延々と噛み殺していたとき。不意にその責め苦がふつりと止んだ。同時に僕は、すっかり腹ばいになっていた自身を起こした。


見下ろした手足は、立派な獣の四つ足。鋭く大きな爪が、歩くたびにかちゃりと床にあたる。息を吸おうと口を開ければ、人間のつくりをしていない舌がべろりと口から垂れた。舌にあたる発達した犬歯は鋭くとがっている。視界の感覚も、人間とは違っている。もとの腰ほどの高さに、まだ慣れきることはできない。


昔はこれが普通だったというのに、おかしな話だ。ふふふ、と自嘲気味な笑い声が小さく脳の中で笑う。この体は声が出ないので、実際には小さな呼吸音が鳴るだけなのだが。神になる前までは、この姿で大地を踏みしめていたのに。今では人の姿ではない自身に嫌悪感を抱くほど、この姿だったことを忘れている。


大きく息を吐き出した。ポトリと唾液が一粒口から落ちる。僕は、身震いをする。


この瞬間が、一番好きだ。痛みに耐えきった褒美に与えられたような、神でいるときには感じられない解放感。部屋の中を満たす空気に毛皮が撫でられるのも。意思とは関係なく動く耳が、外の小さな草の擦れる音をとらえるのも。すべてが昔に戻ったように懐かしい。忘れもしない、あの一夜を思い出す。


僕は、オオカミだった。どこにでもいる、獲物を喰らって日々を消化するだけの。


僕は、淋しかった。群れからも離れ、独りで生きていた。


僕は、願った。誰かに愛されたい。この孤独を埋めてくれる誰かが欲しい。


そうしたら、応えてくれたんだ。月が。


ある満月の晩だった。夜空には星を掻き消す大きな満月があった。僕は、山からせり出した小さな足場から月を見上げていた。地上から眺めるよりも、大きく輝かしい満月を見ていた。その時に、聞こえたんだ。


『可哀そうに。さびしいのね、悲しいのね。貴方は孤独。貴方は獣。でも大丈夫よ。私が叶えてあげる。』


【貴女は、誰?】


僕は不安げに問うた。けれどその声にわずかな期待が滲んだ。これから何か変わるかもしれない。僕が、望んだ、何かが。


『私は、月。月を代わる誰かをずっと探していたの。貴方はぴったりだわ。その心のありようも。誰かにすがろうとしてしまう意識も。そして強すぎる孤独も、高潔さも何もかも。貴方が望むなら、叶えましょう。愛される、貴方に。作り替えましょう、必要とされるあなたに。』


【それなら、叶えてください。僕はもう、独りは嫌だ。】


月は優しかった。孤独な夜を照らしてくれた。僕の遠吠えを聞いてくれた。周りのちっぽけな星なんて見えなくさせるくらい、僕を光で包んでくれた。だから僕は、ただひたすらに希った。それがきっと正しいと、信じていた。


『そうね。一人は淋しいものね。』


月が笑った。そして続けた。


『いい?あなたはこれから、人の姿を手に入れる。神様になる。けれど満月の晩は、今のあなたに逆戻り。姿が変わるときには、激しい痛みが伴うでしょう。そして、人の姿をとっても愛される保証はないわ。それでもいいの?誰かに望まれることで、初めて輝ける、そんな神様になれる?愛されないまま、人の形をとり続けることはできる?姿を変えるたび襲う、激しい責め苦に耐えられる?』


些末なことだった。少しでも望まれるのなら。少しでも愛される可能性があるなら。僕にとっての答えは、とっくに決まっていた。


【はい。】


滑稽だと思う。こうして人の躰を手に入れて。月の神なんて大層なものになって。地獄のような痛みと、じわじわと体を蝕む「愛されない」という毒と。そんなものに屈しそうになる、自身への嫌悪。そんなものばかり感じて、僕は生きている。


ああ、きっと早すぎた。身に過ぎた願いだった。「愛されたい」なんて。分不相応な望むべきじゃないものだった。それでももう、後戻りはできない。僕は神になってしまったし、愛されたいと望んでしまった。それならせめて、この緩やかに過行く地獄を、胸を張って歩こうじゃないか。


金に煌めく相貌で、昔と同じようにただ前を向く。


時間は止まらない。時間は戻らない。時間はただ無常に過ぎ去っていく。それなら、それならば。僕は進み続ける。いつか、望んだ日が僕に訪れるまで。


ああ、誰かに恋焦がれていたならば。愛されることはともかく、僕自身が誰かを【愛する】ことで少しは毒が薄まったかもしれない。【愛される】ことへの渇望を薄めてくれたのかもしれないのに。

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