二人の未来
「すまない、待たせただろうか」
「ううん、そんなことないよ。――忙しい中、私たちのために時間を作ってくれて、ありがとう。リック」
レナータたちの前で立ち止まったリヒャルトにふわりと微笑みかけ、すぐにソファから腰を上げる。
レナータとほぼ同時に立ち上がったアレスをちらりと見遣れば、仏頂面である上、無言を貫いている。アレスは特に機嫌が悪いわけではない時でも、仏頂面になっていることがしょっちゅうあるため、顔を見ただけでは機嫌がいいのか悪いのか、よく分からない。
でも、レナータは長年一緒にいたからか、雰囲気で何となく察することができる。――今のアレスは、機嫌がいいわけでも悪いわけでもなく、限りなく無に近い。
「それじゃあ、予約しておいた会議室に移動しよう。二人とも、こっちだ」
リヒャルトの先導に従い、レナータ、アレスの順に続く。
エレベーターホールへと向かい、ちょうどタイミング良く降りてきたエレベーターに乗り込むと、リヒャルトは八階のボタンを押した。
エレベーターは扉部分以外の三面はガラス張りになっているクリスタルエレベーターで、レナータたちを乗せた籠が上昇していく間、ぼんやりと外の景色を眺める。とはいえ、周囲もビル群ばかりであるため、見ていても楽しめるほどのものではなかった。
やがて、目的のフロアに到着したことを告げる軽やかな音が鳴った直後、エレベーターの扉が左右に開いていく。
エレベーターに乗った時同様、リヒャルトは片側の扉を手で押さえると、先にレナータたちを降ろしてくれた。
(こういうところ、やっぱり紳士だなあ……)
アレスも、昔からレナータのことを何かと気にかけてくれるから、これは母親であるミナーヴァの教育の賜物に違いない。
それから、もう一度リヒャルトの案内に従って少し進むと、先程口にしていた会議室へと通された。
レナータとアレスは、リヒャルトに促されるがまま、並んで席につく。そして、 リヒャルトはレナータたちと対面の席に腰かけた。
(何だか、三者面談みたい……)
レナータは学校に通った経験がないものの、知識としてそういうものがあることくらいは知っている。それに、テーブルの上に視線を落とせば、レナータとアレス、それぞれの前に何やら書類が置かれているから、余計にそういう雰囲気に拍車をかけている。
何の資料かと、確かめようと手を伸ばそうとした矢先、低く甘い声が鼓膜を震わせた。
「――私なりに、君たちがこれから住むのによさそうな賃貸物件や不動産物件、それから新しい就職先などの情報を集めてみた。よかったら、物件探しや転職活動の参考にしてみてくれ」
リヒャルトの言葉に、伏せ気味になっていた顔をぱっと上げ、思わずぽかんと口を開ける。
今までのレナータたちは、自分のことは自分の手でずっとやってきた。今回も、もう少しだけ休暇を満喫し、個人情報の修正が済んだら、アレスと二人で物件探しも転職先を探すのもやる予定だった。
これまで借りていたアパートにも、勤務していた職場にも、いわば偽の個人情報を提示していたのだから、今まで通りに暮らしていくのは難しいだろう。信頼が地に落ちるのは、目に見えている。
ならば、住むところも仕事先も、これを機に変えた方がいい。
そう密かに考えていたのだが、まさか、リヒャルト自らそこまでしてくれるとは、夢にも思わなかった。
レナータにとって、降って湧いてきたに等しい厚意に虚を突かれてしまったものの、徐々にじわじわと温かな気持ちが胸の内に広がっていく。
「……ありがとう、リック。これ、大切に使わせてもらうね」
リヒャルトににっこりと微笑みかけると、改めて資料に手を伸ばし、書面に目を通していく。
「三日前、二人はこれからも第三エリアで暮らす予定だと言っていたな。 ――だが、アレス。第二エリアじゃなくていいのか」
「あ?」
資料から視線を引き剥がして隣を見遣れば、レナータと同じように書類を手に取っているアレスが、怪訝そうに眉間に皺を寄せていた。
「第二エリアは、現存するエリアの中では最大規模の工業都市だ。技術者としての様々な資格を所有しているお前なら、新しい就職先でも引く手数多だろう」
確かに、アレスの将来性を考慮するならば、第二エリアの方が余程キャリアを積める気がする。それに、レナータとしては、どうしても第三エリアでなければ嫌だというほど、強いこだわりを持っているわけではないから、正直どちらでも構わない。
兄からの提案を受けたアレスは何度か目を瞬かせると、どうしてかちらりとこちらを見遣った。
「確かに、仕事のことだけ考えるなら、第二エリアは魅力的だが……住む環境としては、第三エリアの方がずっといい」
アレスが第二エリアに足を運んだことはあっただろうかと、一瞬疑問が脳裏を過ったものの、そういえば以前、仕事で第二エリアに行ったことがあったと思い出す。その時は、別に泊りがけの出張とかそういうわけではなく、日帰りだったため、あまり記憶に残らなかったに違いない。
レナータは、人工知能だった頃に幾度か第二エリアに赴いたことがあるが、現在の世界最大の工業都市と謳われているだけあり、第二エリアは雑然としており、人々が忙しなく生きている印象が強い。だから、アレスの言う通り、確かに生活する環境としては、第三エリアの方が遥かに好ましい。
「それに……第三エリアの方が、レナータが働きたいって思えるところがたくさんあるから、それだけ選択肢が増えるだろ」
――第三エリアに移住してから、レナータは観賞用の植物を栽培する花農場で働いていた。
スラム街で暮らしていた頃は、野菜の栽培を仕事にしていたが、第三エリアには草花や観葉植物、それから花木などを栽培する職があることを知り、野菜よりも花を育てる仕事がしたくて、今の職に就いたのだ。
もちろん、野菜の栽培も楽しかった。だが、最初の父親であるカミルやアレスとの思い出がたくさん詰まっている花は、レナータにとって、別格の存在なのだ。
第二エリアにも、探せば花農場はあるのだろう。しかし、農業や畜産業が盛んなエリアである第三エリアと比べたら、差が歴然としているのは、火を見るよりも明らかだ。
「今じゃ、機械は人間の生活に切っても切れないもんだ。だから、どのエリアに行こうが、就職先はそれなりにあるだろ。だったら、暮らしやすさやレナータが働き甲斐のある仕事ができることを、優先したい」
「アレス……」
そこまで考えた上で、第三エリアでこれからも暮らしたいと言っていたのか。レナータなんて、住み慣れた場所の方が安心するから、同調していただけだったから、そんな自分が少し情けなく思えてきた。
あまつさえ、アレスもそう思っているのではないかと考えていたのだ。何だか、アレスに謝罪したい気持ちでいっぱいになってきたが、別に口に出したわけではないし、知らないままの方が幸せだろう。だから、謝りたい衝動をぐっと堪える。
「――ありがとう。そこまで私のこと、考えてくれていたなんて、嬉しい」
その代わり、感謝の気持ちを言葉にして伝えた途端、レナータを横目に捉えていたアレスの表情がふわりと和らいだ。見ているこちらまで温かな気持ちにさせられる表情の変化を目の当たりにし、ますます表情が緩んでしまう。
「だが、まあ……俺の将来のことを考えてくれて、ありがとうな。リヒャルト」
レナータから目を逸らし、若干歯切れが悪かったものの、リヒャルトに素直に礼を告げたアレスに、驚愕に目を見開く。
アレスからリヒャルトへと視線を移せば、ぱっと見ただけでは分からないが、よくよく目を凝らすと、眼鏡越しに見える琥珀の瞳は驚きに軽く見張られていた。どうやら、兄であるリヒャルトにとっても、驚愕に値する出来事だったらしい。
(アレス、大人になって……)
人間としての肉体年齢は、アレスの方が七つ年上なのだが、一応幼い頃から見守っていた者としては、親のような心境にさせられてしまう。
レナータの視線に気づいているのか、気づいていないのか、アレスはこちらを見ないまま言葉を継いだ。
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