天真爛漫

「二人とも、遠慮しないで素直に受け取りなさい。これは、貴方たちが今日まで精一杯生きてきたことに対する、私からのご褒美です。受け 取り拒否なんて、許しませんよ」


 予想だにしていなかった言葉に気圧されて口を噤むや否や、ミナーヴァはふわりと微笑んだ。


「……ろくに頼れる相手もいない中、二人で支え合って生きてきたのでしょう? だから、これはその努力の結晶だと思いなさい。貴方たちには、これを受け取るだけの資格があるのですよ」


 ――ミナーヴァの言う通り、確かにレナータたちは、これまで懸命に生きてきた。

 しかし、それは当たり前のことで、誰かに褒められるようなことだとは、今まで一度たりとも考えてこなかった。


「二人とも、今までよく頑張りましたね。今日まで生きてくれて、ありがとう」


 レナータたちなりの努力が認められ、生を繋いできたことに感謝してもらえる日が来るなんて、想像さえしてこなかったのだ。

 だから、自分でも上手く言語化できない想いが心の奥底から止め処なく溢れ出し、喉に熱いものが込み上げてくる。

 そっと隣を見遣れば、アレスはいつもの涼しい顔に戻っていたものの、何か考え込んでいるのか、琥珀の双眸は伏せられていた。


「ありがとう……ございます」


 声が震えないように気をつけつつ感謝の言葉を伝え、胸元に引き寄せたカードを両手できゅっと握り締める。

 先刻までは恐れ多く、とてもではないが、受け取る気にはなれなかったのだが、そう言われてしまえば、辞退を申し出ることこそ、相手に対して失礼だとようやく思えてきた。


「どういたしまして。 今まで苦労してきた分、自分たちを甘やかして、労わってあげなさい」

「はい……」

「――レナータ」


 ミナーヴァの言葉を噛み締め、幾度も頷いていたら、低く美しい声に名を呼ばれた。

 どうしたのかと隣に視線を戻せば、アレスが携帯端末に視線を落としたまま言葉を継いだ。


「せっかくだから、スイートに泊まるか」


 場の空気を一切読んでいない、突拍子もない発言を受け、今度はレナータの身体がぴしりと硬直する番だった。

 母親の言葉に何か思うところがあり、考え込んでいたのではないかというレナータの予想はものの見事に外れ、この男は宿泊する部屋を吟味していたみたいだ。


(さっきまでの、私の感動を返して……)


 恨みがましい気持ちが胸中に芽生えてくるのと同時に、もう一度半眼になったレナータの眼前に、アレスは涼しい表情を崩すことなく、携帯端末の画面を突きつけてきた。

 一体何事かと、仕方なくアレスから液晶画面へと視線を移せば、そこにはお姫様の部屋と言われても納得できるくらいの、上品で可愛らしい内装が映し出されていた。


 シティホテルのハイグレードの部屋と位置付けられているだけあり、レナータたちでも泊まったことがある、安いビジネスホテルの一室とは比べ物にならないくらい、まず部屋そのものが広い。寝室だけではなく、リビングやダイニングもある部屋など、レナータは泊まった経験がない。

 しかも、プライベートバーとは何だ。宿泊する部屋の中に、バーが入っているなんて、信じられない。

 他にも様々なサービスが提供されており、何度も目を見張ったものだが、レナータの視線は自然と一枚の写真に吸い寄せられていた。


 ――天蓋付きの、キングサイズのベッド。

 天蓋からは、繊細なレースのカーテンが垂れ下がっており、お姫様が眠るベッドにしか見えない。


(この素敵な部屋は、一体何なの……)


 レナータとて、こういったものへの憧れは一応持ち合わせている。こんな夢みたいな空間で過ごせるのであれば、本望だ。


「軍資金は、充分にある。どうだ、レナータ。この部屋じゃない方がいいか?」

「アレス! この部屋で! お願いします!」


 携帯端末の画面から勢いよく視線を引き剥がした途端、考えるよりも先にそう叫んでいた。

 レナータの熱が入った返事に、アレスが満足そうににやりと唇を笑みの形に歪めた。


「なら、決まりだな。 ――リヒャルト、このスイートを一室、予約しておいてくれ」


 兄の携帯端末だから、勝手に操作するわけにはいかないと思ったに違いない。いつもの仏頂面に戻ったアレスは、そう頼みながらリヒャルトに携帯端末を返却した。


 リヒャルトは複雑そうな表情を、ミナーヴァは面白がるような表情を浮かべていたものの、今のレナータにとっては、どちらも些末なことだった。この世に存在する女性の、幼い頃からの憧れをぎゅっと詰め込んだかのような、あの部屋に泊まれるのであれば、どんな目で見られようとも構わない。それに、アレスもどことなく機嫌がよさそうだから、尚更心が弾む。


 鼻歌を歌いつつ紙コップに口をつけると、中のミルクティーがすっかり冷めてしまっていたから、慌てて飲み干した。



 ***



 ――リヒャルトにホテルの部屋の予約を頼み、今後の打ち合わせを済ませると、アレスたちは母と一緒に、さっそく宿泊先へと向かった。


 ホテルの前に到着するなり、レナータは歓声を上げ、エントランスを抜け、チェックインを済ませるためにフロントに足を運ぶ間も、翡翠の瞳を好奇心できらきらと輝かせていた。

 無邪気にはしゃぐレナータは、素直に可愛い。

 チェックインを済ませ、ホテルのスタッフに部屋まで案内される間も、ずっと上機嫌だったし、宿泊するスイートルームに足を踏み入れた瞬間には、その場で飛び跳ねてしまうのではないかと思うほど、浮かれていた。ホテルのスタッフも、天真爛漫なレナータの様子を、微笑ましそうに見守っていた。


 でも、時間が経てば経つほど、次第に罪悪感じみたものが腹の底から込み上げてきた。

 レナータは、決して鈍感ではない。むしろ、察しがいい方だ。

 それなのに、ここまで純粋に高級なホテルを堪能しているレナータの姿を見続けていたら、実は何も分かっていないのではないかと、猜疑心が芽生えてきた。そして同時に、自分の心が醜く爛れているように思えてきたのだ。


「――ねえ、アレス! 見て見て! 夜景が、すっごく綺麗に見えるよ!」


 午前中はホテルへの移動と荷物の確認で終わり、ビュッフェで昼食を済ませてからは、レナータと一緒にホテルの内部を探索したり、ホテル内のカフェでお茶をした。その後は、夕食まで部屋でのんびりと過ごしていた。


 そして先程、またビュッフェで食事をしてきて部屋に戻ってきたのだが、相変わらずレナータはこの調子だ。窓に張りついたままアレスへと振り返ったレナータは、再び窓ガラス越しに見える夜景に向き直り、のんきに感嘆の吐息を零している。


 レナータに誘われるがまま、アレスも窓辺へと歩み寄る。

 この部屋は、アレスたちが泊まっているホテルの最上階に位置しているから、窓の外に広がる夜の景色は、確かに絶景と呼べるものだった。

 ビル群のせいで、夜空はよく見えないものの、その分地上の灯りが月や星々の代わりに燦然と煌めいている。そして、外が暗いために鏡に近い役割を果たすようになった窓ガラスに映る、地上の光を見下ろすレナータの瞳もまた、本物の宝石のごとく、きらきらと輝きを放っているように見えた。

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