触れ合う吐息

「――なあ、レナータ」

「ん?」


 背後に立ったアレスをレナータが再度振り返ろうとした寸前、窓ガラスに軽く拳を当てる。窓ガラスとアレスに挟まれたレナータは、一体何事かと言わんばかりに、忙しなく目を瞬かせている。

 どこまでも無防備なレナータの耳元に唇を寄せ、囁きを落とす。


「分かっていて、知らないふりをしているのか? それとも、本当に何も分かってねえのか?」


 鎌をかけるような形で問いかけたものの、ここまで言えば、勘の鋭いレナータならば、たとえこれまで気づいていなかったとしても、いい加減察するはずだ。

 レナータがゆっくりと少しだけ振り返ると、アレスが顔を近づけていたため、翡翠の瞳が間近に迫る。少しふっくらとした柔らかい唇から零れ落ちる吐息も、アレスの唇に触れ、窓ガラスをほんのりと曇らせていく。


「……私、大きいベッドがある部屋に一緒に泊まろうって、男の人に言われても何も分からないほど、鈍感じゃないよ」

「じゃあ、知らないふりをしていたのか?」

「したつもりはないんだけど……ほら、こんなに素敵なホテルに泊まるの、初めてでしょ? だから、ついはしゃいじゃって……それに」

「それに?」


 一旦言葉を止めたレナータに続きを促した刹那、どうしてか薔薇色に染まっている頬が一際赤みを増した。


「……意識しちゃうと、恥ずかしいよ……」


 なるほど、気恥ずかしさを紛らわせるためにも、ああいう振る舞いをしていたらしい。確かに、ずっと傍で緊張されたり、そわそわと落ち着かない態度を取られたら、対応に困っていたかもしれない。

 深く納得していると、レナータが不貞腐れたように頬を膨らませた。


「もう、アレスの馬鹿。ここまで言わせないでよ」

「言ってくれなきゃ、分からねえだろ」

「そうだけど……」


 尚も言い募ろうとしたレナータの口を封じるために、少しふっくらとした柔らかい唇をアレスの唇で軽く音を立てて塞ぐ。すると、虚を突かれた翡翠の瞳が見開かれたのも束の間、あっという間に蕩けていったかと思えば、アレスのキスに一生懸命応えてきた。

 幾度かキスを繰り返し、そっとレナータから離れると、まだ物足りなさそうな翡翠の眼差しがアレスの心を絡め取っていく。


「……先、シャワー浴びるか」


 囁くような声音でそう訊ねれば、レナータはおずおずと頷いた。

 レナータに頷き返し、アレスが身体を退けると、ヴァーベナによく似た香りと共に、艶やかなダークブロンドが頬を掠めていった。その直後、軽やかな足音を立ててレナータがアレスの横をすり抜けていった。


 小走りで荷物の元に駆け寄ったレナータは、素早く着替えとスキンケア用品を取り出すなり、バスルームへと駆け込んでいく。

 駆け込んだ割には静かにバスルームの扉が閉まると、レナータがいなくなった部屋は、途端にしんと静まり返った。


 突然訪れた静けさに包まれているうちに、徐々に落ち着かない気分にさせられていき、意識して深く息を吐き出す。それから、リビングに鎮座しているソファへと足を向け、座り心地が抜群の座面に腰を下ろしてすぐに、ローテーブルの上に置きっぱなしになっていたテレビのリモコンに手を伸ばす。

 昼間、カフェでお茶をした後に部屋に戻ってきた際、レナータの膝を枕にしてソファに寝そべりながら、適当にチャンネルを回してぼんやりとテレビを見ていたのだが、そのまま元の場所にリモコンを戻すのを忘れていたみたいだ。


 昼間と同じようにチャンネルを回してみれば、ちょうど名作と謳われた映画が放映されていた。

 さすがに、映画一本を観終わるまで、レナータがシャワーを浴びていることはないだろう。だが、他に面白そうな番組が放送されている気配がなかったため、このまま映画を観ることにした。


(昼間、レナータが能天気にはしゃいでくれて、よかったな……)


 レナータは、あくまで自分のためにそうしていたというが、おかげでアレスもいい具合に気が紛れていたのだと、痛感させられた。先刻までは、レナータの無垢な反応により、複雑な心境に立たされていたというのに、人の心というものは実に勝手だ。


 ソファの背もたれに身体を預け、テレビ画面を眺めていたら、ふとシャワーの音がバスルームから微かに聞こえてきた。

 シャワーの水音など、今まで大して気にしたこともなかったというのに、今はやけに耳の奥まで生々しく響くような気がして、もう一度深々と溜息を吐いた。

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