蜜月
レナータがバスルームから出てくるや否や、次はアレスがバスルームに入り、手早くシャワーを済ませる。シャワーを浴び終えると、ホテル側で用意されていたバスタオルで身体の水気を拭い、これまた用意されていたバスローブを羽織る。
いつも通り、がしがしとフェイスタオルで水分を含んだ髪を拭きつつ、バスルームの外に出ると、まっすぐに寝室に向かう。寝室へと行く途中にあるリビングやダイニングを横目に窺ってみたものの、レナータの姿はなかったから、既に寝室にいるのだろう。
寝室へと足を踏み入れれば、ベッドの端にちょこんと腰かけたレナータが、ぷらぷらと足を揺らしながら、アレスが贈ったばかりのエンゲージリングを掲げて眺めていた。
指輪に嵌め込まれている、アクアマリンや真珠は電灯の光を弾き、きらきらと輝きを放っている。宝石を矯めつ眇めつ眺めているレナータの翡翠の瞳は笑み崩れ、負けじときらきらと輝いているように見える。
そんなレナータの姿は、どこかあどけなく、微笑ましく感じられるもののはずなのに、アレス同様、羽織っているバスローブの隙間から覗く、抜けるように白いものの、健康的なまっすぐで長い足が、ひどく煽情的だ。先程から揺らしているものだから、余計に艶めかしく映る。
つい眉間に皺を寄せた直後、ようやくアレスの存在に気づいたのか、翡翠の眼差しがエンゲージリングから逸れ、こちらへと向けられた。
「あ、アレス。早かったね」
光に翳していた指輪を胸元に引き寄せ、アレスへと振り向いたレナータが、にっこりと微笑む。その無邪気な微笑みを見ていると、やはり本当は何も分かっていないのではないかという錯覚に陥りそうになるが、実際はそういうわけではないのだから、つくづく恐ろしい女だと思う。
眉間に刻んでいた皺を一層深めつつも、レナータの元へと歩み寄り、隣に腰を下ろす。すると、自然とスプリングが微かに軋んだ音を立てた。
「……それ、気に入ったか」
エンゲージリングを軽く握り込んでいる、白くて小さな手に視線を落として問いを投げかければ、アレスと同じように自身の手を見下ろしたレナータが、嬉しそうに頷いた。
「うん。マリッジリングをもらっても、私、絶対にこの指輪も一生大事にする」
レナータが顔を上げるのにつられて視線を上げれば、はにかみながら力強くそう宣言された。そうしたら、 アレスの頬も自然と緩んだ。
「そうか。レナータに喜んでもらえて、よかった」
「喜ぶに決まっているよ。アレスが、私のために一生懸命選んでくれたものだもの。それに……あんなに素敵なシチュエーションでもらったら、何だって嬉しいよ」
柔く握り込んでいたレナータの手がそっと開かれていくと、再び指輪が姿を現した。かつてのレナータの瞳にそっくりなアクアマリンも、上品で可憐な真珠も、やはりよく似合っている。
自らの選択に満足していたら、唐突にレナータがベッドから腰を上げた。そして、サイドテーブルに近づくと、テーブルの上に置かれていた小さな箱の中に、エンゲージリングを慎重な手つきで戻し、静かに蓋を閉めた。
常夜灯以外の灯りを消し、レナータが小走りにアレスの隣へと戻ってくると、場に沈黙が落ちた。
頬に視線を感じ、再度アレスの隣に座ったレナータをちらりと見遣れば、琥珀の眼差しと翡翠の眼差しが深く絡み合う。少しふっくらとした柔らかい唇が微かに開き、熱っぽい吐息が零れ落ちたかと思えば、二人の間にほとんどなかった距離を、レナータからさらに詰めてきた。
「――ねえ、アレス」
ベッドの上で膝立ちになったレナータの両手に頬を包み込まれ、顔を覗き込まれる。頬を撫でていく吐息は、先刻よりも熱を上げたように感じられたし、アレスを捉えて離さない翡翠の瞳は、涙の膜がうっすらと張ったかのごとく、ゆらゆらと揺らめき、潤んでいる。レナータの身体からふわりと立ち上る、ヴァーベナに酷似した香りが鼻孔を掠めていく。
「指輪をくれて、本当にありがとう。でもね、私、図々しいかもしれないけど、もう一つ欲しいものがあるの」
アレスの頬を撫でつつ、透明感のある柔らかい声が歌うように言葉を紡いでいく。
「アレス、たっぷり可愛がってやるから、覚悟しておけって、電話で言っていたから、私、ちゃんと覚悟決めておいたよ。だから――」
アレスの顔を覗き込んでいたレナータが、不意に小首を傾げた。その拍子に、艶やかなダークブロンドがさらりと揺れた。
「――私に、アレスをちょうだい」
可愛らしく強請るような口調にも関わらず、その声はアレスの理性を溶かし尽くすのに充分なほどの熱と甘さを孕んでいた。
レナータの手首を掴み、アレスの頬から小さな手を引き離した途端、もう片方の手をその細腰に回し、ぐっと抱き寄せる。すると、互いの唇が重なり合い、レナータの手首を掴んでいた手を放して後頭部に添え、より一層結合を深めていく。
レナータとキスを交わしているうちに、だんだんと互いの口内から生まれる水音が静寂を侵食していく。触り心地のいいダークブロンドを指先に絡ませると、レナータが縋るようにアレスの肩をきゅっと掴んできた。
どれほどの間、貪欲なキスに没頭していたのだろう。唇を解放する頃には、レナータの息はかなり弾んでいた。少しふっくらとした柔らかい唇が、唾液でてらりと光っている様が、薄暗がりの中でも見て取れた。
荒い呼吸を繰り返すレナータの肩をとんっと軽く押せば、アレスの肩を掴んでいた手があっさりと外れ、シーツの上に仰向けに倒れ込んだ。レナータが倒れた直後、シーツの上にダークブロンドが散った。僅かにはだけたバスローブの襟からは、華奢な肩が覗いている。
「――男の煽り方なんざ、どこで覚えてくるんだ」
レナータに覆い被さりながら、咎めるように疑問を投げかければ、眼前に迫る翡翠の瞳がふわりと笑み崩れた。そして、投げ出されていた両手が持ち上がったかと思えば、もう一度アレスの頬を包み込んできた。
「……私がこの歳になるまで、アレスのこと随分待たせちゃったから、その間にアレスを喜ばせる方法、私なりに一生懸命考えていたの。別に、誰かに教わったわけじゃないよ。人から教わった方法を実践されても、アレス、嬉しくないでしょ?」
「……恐ろしい女だな」
思ったことをそのまま告げれば、何故かレナータは唇を尖らせた。
「アレスこそ、あんな上手なキスの仕方、どこで覚えてきたの?」
「野生の勘だ」
これは嘘でも何でもなく、紛れもない事実だ。アレスの場合、こういうことは本能に従って行えば、大抵間違いはない。
「アレスの野生の勘も、怖いね……」
互いに軽口を叩き合い、密やかな微笑みを交わす。そして、それを合図に、レナータの額や臉、頬に鼻先、唇へと、順にキスを落としていく。くすぐったかったらしく、レナータはくすくすと笑みを漏らす。
「――アレス、大好き。本当に、大好きだよ」
「なら、俺の方が上だな。 ――レナータ、愛している」
「私だってアレスのこと、愛しているもの」
もう、それ以上の言葉は必要なかった。
再び少しふっくらとした柔らかい唇をアレスの唇で塞ぐと、ヴァーベナによく似た香りが、レナータの身体から一際濃厚に立ち上ってきた。その香りに包まれつつ、レナータと指を絡め合ってぎゅっと深く手を繋ぎ合わせた瞬間、小さな手がアレスに応えるように握り返してきた。
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