二章 最愛の瞳

微睡み

 ――深い眠りから緩やかに意識が浮上していき、ふわふわと微睡んでいたら、ふと頭を優しく撫でられる感触がした。

 レナータがこの世界で最も好きな人の手に身を委ねながら、ゆっくりと瞼を持ち上げれば、見慣れない天蓋が視界いっぱいに映った。


(あれ……ここ、どこだっけ……)


 レナータが普段使っているベッドは、天蓋付きベッドなんて、贅沢な代物ではない。それに、ここまで寝心地もよくなかったはずだ。

 緩慢とした動作で瞬きを繰り返しているうちに、はっと昨日の記憶が脳裏にありありと蘇ってきた。それとほぼ同時に、頬にじわじわと熱が上ってくる。


(……死にたい……)


 いや、本気で死にたいわけではないのだが、陽が昇っている時間帯に思い出したい記憶ではなかった。


「――おはよう、レナータ。目が覚めたか」


 枕に顔を埋め、足をじたばたと振り回したい衝動と戦っていたら、低く美しい声が耳朶を打った。そろりと声の主へと視線を動かせば、小奇麗に身支度を整えたアレスがベッドの端に腰かけ、横向きに寝そべったまま、硬直しているレナータを見下ろしていた。


 きっと、アレスはとっくの昔に起きていたのだろう。シャワーを浴びたらしく、レナータのすぐ傍で腰を下ろしているアレスの身体からは、シャンプーの清潔な香りが漂ってくる。

 それに、おそらく時刻はもう昼近くに違いない。眠るレナータを気遣ったのか、寝室のカーテンは閉め切られたままなのだが、それでもその隙間から零れてくる光は、大分明るくて強い。少なくとも、いつもレナータが起床する時間よりは遅いはずだ。


「……おはよう、アレス。起こしてくれれば、よかったのに……」


 アレスに不満を訴えるレナータの声は、掠れ気味だった。その理由が、起き抜けだからというものの他にもあることには、薄々気づいていたものの、今は考えないでおく。


「一応、声はかけたぞ。それでもレナータがぐっすり寝ていたから、そっとしておいただけだ」

「そうだったんだ……」


 全然、気づかなかった。声をかけられたことはもちろん、アレスがベッドから出た際に生じたであろう物音にも、全くもって意識に掠りもしなかった。

 確かに、レナータは一度寝ると、なかなか起きない。だが、それは夜中に限った話で、朝になれば、すっきりと目が覚める。昼寝の時だって、そうだ。だから、快眠だったにも関わらず、朝を迎えても意識が覚醒しなかったなど、レナータにとって、信じられない事態だ。


 しばし茫然とアレスを見上げていたものの、いつまでもベッドの上で寝転がっていないで、いい加減起きようと、のろのろと上体を起こす。

 ぐっと伸びをしつつ、唇から漏れ出てきた欠伸を噛み殺していたら、途端に何故かアレスがきつく眉根を寄せた。


「……レナータ、前をちゃんと閉めろ」


 どうしたのかと首を傾げながら、アレスの視線を辿っていけば、バスローブを羽織っているものの、いつの間に紐が解けてしまったのか、惜しみなく晒されている自身の裸体が、視界に飛び込んできた。


「ご、ごめん!」


 これは、明るい時間帯から見せていいものではない。

 慌てて着衣の乱れを整えると、きりっと表情を引き締めてアレスへと向き直る。


「アレス、大変失礼しました」

「別に、謝るほどのことじゃねえが……普通に裸でいるよりも、ああいうのの方がよっぽどエロいから、なるべく気をつけて欲しい」

「以後、気をつけます」


 なるほど、そういうものなのかと、胸に留めておく。

 神妙な面持ちで深々と頷いた直後、はたとあることに思い当たる。


「……ねえ、アレス」

「なんだ」

「私、アレスのこと、寝ている間に蹴っ飛ばしたりしなかった?」


 悲しいことに、人間になってからのレナータは、あまり寝相がよろしくない。

 寝る直前には、いつも仰向けになっているのだが、朝になると、横を向いていることが多い。就寝時には相当寝返りを打っているみたいで、レナータが起きた後のシーツは、大体くしゃくしゃに皺が寄っている。時には、掛け布団を蹴り落していることだってある。幼い頃は、アレスから誕生日プレゼントにもらったテディベアを枕元に飾っていたのだが、大抵朝には床に転がっていたものだ。

 やや緊張しつつも、琥珀の瞳をまっすぐに見つめていると、アレスは緩く首を横に振った。


「いや、蹴られたりはしてねえよ。少なくとも、覚えはない。いつも通り、寝返りは打っていたが」

「よかったあ……」


 ほっと胸を撫で下ろしていたら、レナータのすぐ傍に座っていたアレスが、不意に立ち上がった。そして、寝室から出ていったかと思えば、ミネラルウォーターのペットボトルを片手に、またすぐに戻ってきた。


「ほら。喉渇いているんだろ」


 レナータの声が弱々しく掠れていたから、気を利かせて、部屋に備え付けの冷蔵庫から水を持ってきてくれたのだろう。


「ありがとう」


 差し出されたペットボトルを受け取り、きゅっとキャップを外すなり、飲み口に唇を寄せて口の中にミネラルウォーターを流し込んでいく。自覚していた以上に喉が渇いていたらしく、それほど大きなペットボトルではなかったこともあり、あっという間に半分近く飲んでしまった。

 ペットボトルから口を離し、深い吐息を零すと、アレスがレナータに向かって手を伸ばしてきた。それから、寝乱れたレナータの髪を撫でながら、薄く形のよい唇を開いた。


「起き上がれるなら、シャワー浴びてこい。着替えもバスタオルも、もう持っておいたから」


 そういえば、夜中にもシャワーを浴びてくるように促された気がする。ただ、その時のレナータは起き上がるのが億劫で仕方がなくて、面倒臭いから、朝になってからでいいと、気怠い身体をベッドに横たえつつ、まるで駄々っ子みたいに言い放ったのだ。アレスは衛生面を配慮し、そう進言してくれたに違いないのに、そこまで気が回らなかったのだ。


「……はい、そうします」


 夜中の自分の態度を反省し、殊勝に頷くと、ゆっくりとベッドから出た。


「時間、気にしなくていいから、ゆっくり入ってこい」


 のろのろと寝室の外へと向かおうとしていた矢先、低く美しい声が優しく背を打った。


(きょ、今日のアレス、すっごく優しい……!)


 元々、アレスはレナータに対して優しいが、今日はいつもの比ではないように思える。何というのか、こう、ものすごく大事にされているという実感がふつふつと湧き上がってくるような、細やかな気配りをする努力をしているのではないかという気がしてくるのだ。

 もう一度こくりと頷くや否や、先程までは亀のような歩みだったというのに、脱兎のごとく駆け出し、バスルームへと飛び込んだ。

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