当たり前のことじゃない

 丹念に髪や身体を洗い、水気を拭った肌を隅々まで手入れし、ドライヤーで丁寧に髪を乾かしてから、アレスが用意してくれた服を身に纏う。


 アレスは、レナータがワンピースを着ている姿や、スカートを穿いている姿を好んでいるのではないかと思っていたのだが、今回用意されていたのは、オフホワイトのフリルブラウスにモスグリーンのショートパンツ、それからダークグレーのタイツだった。機能性と可愛らしさを兼ね備えた装いだ。

 アレスが用意してくれていた服に身を包むと、誕生日の時から履いていた、シャンパンゴールドのパンプスに足を滑り込ませる。


(今思うと、スラムに住んでいた頃には考えられないくらい、お洒落を楽しんでいるな……)


 スラム街で暮らしていた頃は、パンプスなんて買ったことがなかった。

 身支度を整え、洗面台の鏡で最終確認をすると、そっとバスルームから出た。その直後、ふわりと食欲をそそる香りが鼻先を掠めていった。

 その香りに誘われるがのごとく、ふらふらとダイニングへと入っていくと、思わず唇から小さな歓声が零れ落ちていった。


「わあ……!」

「レナータ、ちょうどよかった。さっき、ルームサービスで頼んだやつが届いたんだ」


 ダイニングテーブルの上には、見ているだけでも楽しい、食事の数々が並んでいる。

 色とりどりの野菜を使ったサラダと、ふわふわのチーズオムレツは、ガラスの器や真っ白なプレートに映えている。仄かに甘い香りと共に湯気を立ち上らせている、コーンポタージュもある。白磁のティーカップとティーポットも用意されており、香りから察するに、ポットに入っているのは、十中八九紅茶だろう。


 そして何より、メインディッシュである、ベリーソースと粉砂糖で彩られたフレンチトーストが、レナータの目を惹く。

 フレンチトーストは、時々アレスが作ってくれるが、ホテルのフレンチトーストは、普段レナータが食べているものよりも、明らかに高級感が漂っていた。


(プロと素人の違いっていうのも、もちろんあるけど……これは、使っている食材も全然違うんだろうな。食器も、滅茶苦茶お洒落だし)


 ごくりと唾を飲み込むレナータに、アレスが近づいてきたかと思えば、そっと椅子を引いてくれた。


「ほら、レナータ」

「あ、アレスが、優しいいいいいい……!」


 先刻も思ったことをつい口走ってしまったら、アレスが怪訝そうに眉間に皺を寄せた。


「……そんなに、いつもと違うか?」

「ううん、そうじゃなくて。アレス、基本的にいつも私に優しいけど、今日は何だか別格のような気がして……」


 アレスに促されるまま、椅子に腰を下ろすと、なるべく音を立てないように気をつけてくれたのか、静かに椅子とテーブルの距離が縮まっていく。すると、自然と色彩豊かな食事たちとも近づいていき、思わず頬が緩む。


「――レナータが俺の傍にいてくれるのは、当たり前のことじゃねえからな」


 まさか、返事があるとは思っていなかったから、咄嗟に背後を振り返る。アレスと目が合った途端、再び頭を撫でられた。


 もしかして、レナータが楽園の人間に連れていかれたという出来事は、想定以上にアレスの心を傷つけてしまったのだろうか。

 あの時は、被害を最小限に抑える、最善策だと思ったし、今でもその考えは変わらない。

 しかし、だからといって、レナータを必死に守り続けてくれた、アレスの心を踏み躍っても許される、免罪符になるとは、微塵も思わない。


(それにアレス、リックの話になると、卑屈っぽくなったり、不機嫌になったり、あからさまに話を変えてきたりしていたな……)


 今回の出来事は、アレスに喪失感だけではなく、無力感や劣等感をもたらす結果にもなったのかもしれない。


「それに……レナータの身体は、思っていたよりも脆そうだなって、昨夜思い知らされたばかりだからな。余計に、大事にしてやりたいって思ったんだ」


 アレスが続けた言葉により、しんみりとしていた気持ちが、木っ端微塵に吹き飛んだ。


(そういう理由か……!)


 感傷的な理由だけかと思いきや、艶めいた要因も絡まり合うと、どうしてこうも複雑な心地にさせられるのか。


「……アレス、あのね」


 アレスを案ずる気持ちと、妙な気を回すなと言いたい衝動が混ざり合う中、振り返った体勢のまま口を開く。


「私のことを大切にしてくれる気持ちは、すごく嬉しいんだけど……私、確かにそんなに強くないけど、多分アレスが思っているよりは弱くないよ。だから、だからね」


 一旦言葉を区切り、改めて琥珀の瞳をじっと見据える。アレスはレナータの頭を撫でていた手を引っ込めると、言葉の続きを促すかのように、無言で見つめ返してきた。


「アレスは、いつも通りで大丈夫だよ。 アレスの、いつも通りの優しさだけでも、私にとっては充分過ぎるくらいなんだよ」


 レナータがふわりと微笑んだ瞬間、琥珀の瞳がゆっくりと見開かれていった。そして、涼しげな目元がそっと緩められたかと思えば、薄く形のよい唇がうっすらと開いた。


「……なるほど。つまり、遠慮はいらねえってことか」

「どうして、そういう結論になるの!」


 間髪入れずに頬を膨らませて反論すれば、また一段とアレスの表情や雰囲気が柔らかくなっていく。性質の悪い冗談めかした言葉を返されてしまったものの、どうやらアレスの心を軽くすることには成功したみたいだ。


「ほら、アレス。いつまでも私専属の執事さんをやってないで、席に座ってごはんにしよ。早くしないと、冷めちゃうよ」


 どんなにおいしい料理でも、冷めてしまったら、おいしさが半減してしまう。特に、今回の食事の場合、チーズオムレツとコーンポタージュ、そしてフレンチトーストは危険だ。


「はいはい」


 おざなりな返事ではあったものの、アレスは素直にレナータの言葉を聞き入れ、足早に自分の席についてくれた。

 二人揃って食前の挨拶を済ませるや否や、レナータはさっそくコーンポタージュをスプーンで掬い、口元に運んだ。スプーンを口の中に差し入れ、ポタージュが舌に触れた刹那、優しい甘さとほどよい温かさが、口いっぱいに広がっていく。


(おいしい……!)


 たかがコーンポタージュ、されどコーンポタージュだ。

 ポタージュのおいしさに浸ったのも束の間、今度はナイフとフォークを構え、フレンチトーストに取りかかる。


 フレンチトーストを食べやすい大きさにナイフで切り分けた直後、バターの豊かな香りが鼻孔を掠めていった。その香りに、より一層期待感が高まる中、切り分けたフレンチトーストを口の中に放り込んで噛み締めた途端、卵や牛乳、粉砂糖の甘さと、ベリーソースの酸味、それからしっとりとしたパンの食感が絶妙に調和し、その感動に打ち震える。


「……アレス、ありがとう。このごはんのチョイス、ほんっとうに最高」


 ナイフとフォークをぎゅっと握り締めたまま、声に熱を込めてそう告げれば、レナータとは裏腹に涼しい顔で食事をしていたアレスは、微かに苦笑いを浮かべた。

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