貧乏性
「――それで、今後のことなんだが」
空腹を満たし、食後のミルクティーをのんびりと飲んでいたら、同席することになったリヒャルトがおもむろに口を開いた。
「アレス、レナータ。お前たちには、身の安全を守るためにも、個人情報の修正を申請するためにも、しばらくこのエリアに滞在してもらう」
リヒャルトの口調から察するに、今しがた口にしたことは決定事項なのだろう。
確かに、リヒャルトの言う通り、レナータたちは今まで、スラム街在住時以外は、エリーゼが偽造した認証IDを登録して生活を送っていた。もう楽園の人間からこそこそと逃げ回る必要もなくなった以上、個人情報の内容を正すべきだ。
だが、今すぐ日常生活に戻るのはあまりにも軽率だし、レナータたちの身の安全を確実に保障できると判断するまでは、リヒャルトの目が届く範囲に留まって欲しいということに違いない。
「……つまり、楽園の連中からもう逃げ回らなくてよくなったが、念のため、しばらく様子を見るってことか」
「ああ、その通りだ」
レナータと同じ結論に至ったアレスが、確認のためにそう問いかければ、リヒャルトは首肯した。
「了解だ、リヒャルト」
レナータも、リヒャルトの判断に異論はない。しかし、このエリアに留まる間、どこに身を寄せるかを考えなければならないし、着替えだって調達する必要がある。
(いつまでここにいるのか分からないけど、泊まるところは、宿泊費を抑えたいから、ビジネスホテルにして……服や下着も、安いので済ませよう)
今後の方針に沿った計画を頭の中で立てていると、アレスの視線がレナータへと向けられた。
「レナータ。何があるか分かんねえと思って、数日分の着替え、家から持ってきておいたから、着るもんの心配はしなくていいぞ」
その言葉を耳にした刹那、アレスへの好感度がまた一段と跳ね上がった。
(この人、スパダリ予備軍だ……!)
既にプロポーズを受けている身だというのに、ついアレスと結婚したいと強く思ってしまった。
「ありがとう、アレス……!」
「適当に選んできたから、あとで一応確認しておいてくれ」
「適当っていっても、私のクローゼットから持ってきてくれたんでしょ?」
レナータのクローゼットの中は、ついこの間衣替えを済ませたばかりだから、そこから持ち出してきてくれたのであれば、何の問題もない。
「ああ。春物と薄手の冬物、両方持ってきた」
「アレス、チョイスが完璧……!」
暦の上では春とはいえ、三月は時折寒い日がある。だから、クローゼットの中に薄手の冬物を残しておいたのだが、アレスはそちらも荷物の中に入れてくれたみたいだ。
レナータが感動に打ち震えていると、不意に視線を感じた。
はっと正気を取り戻し、慌てて振り向けば、微笑ましそうにレナータたちを眺めていた、ミナーヴァと目が合った。
「あらあら。アレスとレナータは、本当に仲良しさんなんですね」
「そうだろ」
ただでさえ居たたまれない言葉をかけられたというのに、当事者であるアレスがあっさりと肯定するものだから、ますます居心地が悪くなっていく。
咄嗟にミナーヴァの隣に座っているリヒャルトへと視線を動かせば、感情がよく読み取れない琥珀の瞳が、アレスをじっと見つめていた。
何だか、あまりじろじろと見てはいけない気がして、急いでまた視線を彷徨わせ、結局アレスに固定する。
「どうした、きょろきょろして」
誰のせいだと思っているのかという抗議の意思を込め、アレスを半眼で見遣っていたら、場の空気を変えるような咳払いの音が聞こえてきた。
「話を戻すが……このエリアに滞在する間、ここのホテルに宿泊したら、どうだろうか」
リヒャルトはそう言いながら、レナータとアレスの間に自分の携帯端末をすっと置いた。
液晶画面に表示されていたのは、レナータが考えていた安いビジネスホテルとは対照的な、高級感溢れるシティホテルだった。外観も内観も、まるで宮殿のような美しさで、思わず感嘆の吐息を零してしまいそうだ。
「ここは、首長一家も利用することがあるホテルだ。だから、セキュリティ面には何の不安要素もない。現に、母さんはここにしばらく泊まっているが、なかなか快適に過ごせているそうだ」
「ええ。お部屋は広くて綺麗ですし、食事もとてもおいしいですよ。ホテルの中にレジャー施設も入っていますから、二人とも楽しめるんじゃないかしら」
確かに、それは素晴らしい。
携帯端末を覗き込んだアレスが、画面に指先を滑らせると、ホテルの内部に組み込まれているレジャー施設が、次々と映し出されていく。
バーやカフェがあるのはもちろんのこと、カジノやビリヤード場も利用できるらしい。また、規模こそ小さいものの、美術品の展示コーナーも用意されているみたいだ。
さらには、屋内プールもあるらしく、画面に表示されているナイトプールの写真は、溜息が出てきそうなほど、幻想的で美しい。見ているだけでも、充分に楽しい。
でも、宿泊費がどれくらいかかるのかと考えると、別の意味で溜息が零れてしまいそうだ。
(一泊くらいなら、まだどうにかなりそうだけど……)
リヒャルトの話によると、数日は滞在しなければならないのだから、もっと安いホテルで充分なのではないか。
そう頭の片隅で思ったものの、万全なセキュリティ対策ができなくなってしまうから、こういうホテルを勧めてきたのだとも、理解している。
だが、やはり宿泊費を考えると、素直に頷くのは難しい。
レナータが眉根を寄せて携帯端末の画面を睨んでいたら、凛とした響きを帯びた声が耳朶を打った。
「レナータ、安心してください。 お金の心配は無用ですよ」
まさか、リヒャルトかミナーヴァが負担するつもりなのだろうかと顔を上げれば、白魚のような美しい白い手が、すっと一枚のカードをアレスに差し出してきた。
「はい、アレス。これは、十年分の誕生日プレゼントです」
――ミナーヴァがにっこりと微笑んで差し出してきたのは、あろうことか、ブラックカードだった。
息を呑むレナータの横で、これまで飄々としていたアレスも、さすがに固まってしまっている。
「エリーゼたちと一緒に暮らしていた頃までは、誕生日プレゼントを渡せましたけど、その後は全然あげられなかったでしょう? それに、アレスくらいの年齢になると、現金の方が嬉しいかと思いまして」
そうだとしても、ミナーヴァが随分と太っ腹であることには、変わらないと思う。
硬直したまま、微動だにできずにいる息子を余所に、ミナーヴァはレナータの手にも平然と一枚のブラックカードを乗せてきた。
「はい、こっちはレナータの分。十年分の誕生日プレゼント兼、息子がお世話になったお礼です」
両手でブラックカードを受け取る羽目になったレナータは、がたがたと全身に震えが走ってきた。
――ああ。目の前にいるこの人は、間違いなく楽園に住まう選ばれし者だったのだ。
まさか、こんな形でそう思い知らされる瞬間が訪れるとは、今の今まで夢にも思わなかった。
いくらこのカードに振り込んでいるのか知らないが、十中八九レナータには想像もできないほどの金額なのだろう。
こんな大金は受け取れないと、口を開こうとした矢先、ミナーヴァに咎めるような目で軽く睨まれてしまった。
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