恋人たちの戯れ
兄のオフィスから一刻も早く離れたくて、相手の歩調に合わせる余裕すらないまま、アレスたちが滞在するホテルの部屋に着く頃には、レナータの息はすっかり上がってしまっていた。
ほとんど走り通しみたいなものだった上、普段よりもヒールの高いパンプスを履いていたレナータは、足を痛めてしまったらしく、立ち姿がどことなくぎこちない。
「……悪い、レナータ」
今さら謝ったところで、レナータの疲労も足の痛みも消えてなくならないのだが、それでも口にせずにはいられなかった。
そして、レナータが口を開くよりも先に、その身体を抱き上げる。
「わ!」
何の声かけもせずに抱き上げたからか、レナータは目を丸くして小さな悲鳴を上げ、アレスの首に慌ててしがみついてきた。
目を忙しなく瞬かせるレナータの腕をあやすように軽く叩き、ソファへと向かうと、その座面にゆっくりと下ろす。それから、レナータの足元に跪き、パンプスを脱がせていく。
ストッキングに覆われているレナータの足を確認してみると、出血こそしていなかったものの、親指と小指、それから踵がうっすらと赤くなっていた。もし、あとほんの少しでも強く擦れていたら、十中八九皮が剥けていたに違いない。
「レナータ、痛むか」
ストッキング越しにレナータの足の指を柔く撫でた直後、爪先がびくりと跳ねた。
「ア、アレス。ちょっと痛いけど、そういう風に触られると、それ以上にくすぐったいから、やめて」
どうやら、痛がっていたわけではなく、単にくすぐったかっただけらしい。
顔を上げれば、レナータは困ったように眉を下げ、アレスを見下ろしていた。
「痛いのは、ちょっとだけか」
「うん。だから、そんなに心配しなくても、大丈夫だよ。でも、これからはもう少し私の歩くペースに合わせて欲しいな」
「分かった、気をつける」
「ありがとう。あと、ちょっと申し訳ないけど、スリッパ取ってくれる? 着替えて、休憩したいから――」
「――レナータ」
名を呼んで言葉を遮ると、レナータは不思議そうに小首を傾げた。その拍子に、艶やかなダークブロンドがさらりと揺れる。
「あとで、スリッパ取ってきてやるし、何なら着替えも手伝うし、水も取ってくるから――」
そう言葉を紡ぎながら立ち上がるや否や、レナータの隣に腰を下ろす。 そして、間髪入れずにレナータの身体をぎゅうっと抱き竦める。
「――ちょっと、消毒させろ」
現状に思考が追いついていないのか、アレスの腕の中にいるレナータは呆気に取られているみたいだ。
忙しなく瞬きを繰り返す仕草は、レナータが虚を突かれている時の癖だ。今のレナータはアレスから見て横を向いているため、睫毛の長さがより一層際立っている。
やがて、のろのろとレナータが身体ごとアレスへと向き直ると、どことなく呆れたような様子で、目を合わせてきた。
「……アレス。まさか、たかだか一回抱きしめられただけで、私が心変わりしたんじゃないかって、思っているわけじゃないよね?」
「さすがに、そこまで飛躍して考えねえよ。単純に、自分の女が他の男に抱きしめられていたのが、嫌なだけだ」
独占欲が強く、嫉妬深い性質だと自覚しているとはいえ、ここまで来たら、いくら何でもそこまでレナータの気持ちを疑ったりはしない。
しかし、改めて言葉にしてみたら、余計に腹が立ってきた。苛立ちを少しでも早く収めるべく、レナータの肩に顔を埋めれば、ヴァーベナによく似た香りがふわりと鼻孔を満たし、さっそく効果が現れてきた。
そのままレナータの首筋に頬を擦り寄せれば、これもくすぐったく感じられたらしく、身を捩ってアレスの腕から逃れようとする。そうはいくかと、レナータを抱き留めたまま仰向けに座面に倒れ込む。
背中が柔らかな感触に受け止められると同時に、視界いっぱいに天井を背にしたレナータの顔が映り込む。零れ落ちた幾筋ものダークブロンドがアレスの頬を撫でるものだから、少々くすぐったい。
「もう……アレス。せっかく買ったばかりなのに、これじゃあアレスのスーツも私のワンピースも、皺になっちゃうよ」
「あと、もうちょっとだけだから」
困り顔になったレナータが、唇を尖らせてそう訴えかけてきたものの、まだ解放する気には露ほどにもなれない。
レナータの華奢な腰をがっちりと固定すると、少しふっくらとした柔らかい唇から呆れを多分に含んだ溜息が零れ落ちてきた。
「そんな……朝、なかなか起きられない人みたいなこと、言わないでよ」
「気分的には、似たようなもんだ」
「胸を張って言うようなことじゃありません」
しかめっ面になって小言を漏らしたのも束の間、レナータはふっと吐息交じりの笑みを零した。
「……アレスは、いつまで経っても甘えん坊さんだなあ」
「心外だな。甘えん坊が、兄貴分なんざできるか」
「それは、そうかもしれないけど……やっぱり、私の中ではアレスは、甘えん坊さんって印象が強いかな」
「でも、甘やかしてくれるんだろ?」
「誰かさんが甘え上手なおかげで、ついつい甘やかしちゃうだけです」
レナータは苦い笑みを零しつつもアレスの頭に手を伸ばし、優しく撫でていく。そうやって頭を撫でられると、つい猫みたいに目を細めてしまう。
レナータはアレスの頭を撫でる手を止めぬまま、苦みの消えた笑みをくすりと漏らした。
「……その代わり、気が済んだら、アレスがスーツとワンピースの皺を伸ばしてね」
「了解」
レナータのぬくもりと柔らかな肢体の感触を堪能できるのであれば、そのくらい望むところだ。
しばらくアレスの髪の感触を楽しんでいたレナータは、ようやく気が済んだみたいで、ゆっくりと手を放していった。そして、アレスの顔を覗き込んできたレナータを見つめ返しながら、ふとあることを思い出す。
「……なあ、レナータ」
「ん? なあに?」
「結婚式は、どうする? 希望とか、あるか?」
いくら成人したとはいえ、レナータは年頃の娘だ。歳相応に、結婚というものに夢を見ているかもしれない。
「え? 別に、式はやらなくていいよ」
でも、アレスの予想とは裏腹に、実際にレナータの口から出てきたのは、十八歳の娘らしからぬ発言だった。
「だって私たち、式を開いたところで、呼ぶ人は限られているじゃない。呼べる人なんて、ミナーヴァさんとリックくらいのものでしょ? アレスも私も、今まで表面的な人付き合いしかできなかったから、こういう時に招待できる友達はいないし……。だったら、そのお金を旅行に回そうよ」
「……いや待て、俺はレナータのウェディングドレス姿、見たいぞ」
さくさくと話を進めていこうとするレナータを、慌てて止めると、再び苦笑いを向けられた。
「アレス……私のドレス姿なんて、小さい頃に散々見てきたじゃない」
「人間になってからは、一回も着たことねえだろ。それに、あれはウェディングドレスじゃねえし」
今のレナータが、ウェディングドレスを身に纏った姿を見たいのだと、切々と訴えれば、悩ましそうに眉根を寄せられてしまった。
だが、辛抱強く返事を待っていると、やや躊躇う素振りを見せたものの、レナータが小首を傾げつつ、問いを投げかけてきた。
「じゃあ……二人っきりの式を挙げる? そうすれば、予算も大分抑えられると思うし……。あ! 探せば、ドレスとタキシードをレンタルして、写真だけ撮ってもらえるサービスとかもあるかも!」
「よし、二人だけの式を挙げよう」
どうせならば、ウェディングチャペルでレナータの花嫁姿を見たい。それに、あの兄にレナータのウェディングドレス姿を見せずに済むのは、非常に魅力的だ。
後者の案も別に構わないが、アレスとしては、やはりけじめとして、小規模でも式を挙げておきたい。
アレスが間髪入れずに前者の案に頷くと、レナータも控えめではあったものの、頷き返してくれた。
「それも、そうだね……私たちの人生の、一つの節目になるわけだし、そうしよっか。それに……私もアレスのタキシード姿、ちょっと見てみたいかも」
「絶対、ろくなもんじゃねえぞ」
「私の夫になる人の悪口は、たとえアレスの口からでも聞きたくないなー」
その返しは卑怯だと内心吐き捨てながら、さりげなく話題を変える。
「そういえば、式はやらなくていいって、最初に言っていたが、旅行は行きたいんだろ? どこに行きたいんだ?」
「えっとね……私、人間に生まれ変わってから、一回も旅行に行ったことがないから、どこに行きたいっていうよりも、旅行そのものに興味があるの」
確かに、アレスもレナータも、引っ越しならば二度経験しているが、旅行をしたことは一度たりともない。
「そうだな……なら、第五エリアに行ってみるか?俺も、この間初めて行ったばかりだが、色んなレジャー施設を見かけたから、楽しめると思うぞ。一応、世界最大の観光都市って言われているくらいだからな」
アレスがそう提案した刹那、レナータはぱあっと目を輝かせた。
「うん! そこに行ってみたい! ……あ。あとね、今思いついたんだけど、第四エリアにも行ってみたいな。あそこ、海鮮料理がおいしいって評判らしいから、食べてみたいなあって……」
「そうだな。今まで行けなかったとこに行って、食いたいもんを食おう」
今度はアレスがレナータの頭に手を伸ばし、触り心地が抜群のダークブロンドを撫でていく。
「これからの生活で、他に何か希望はあるか?俺にできることなら、可能な範囲で叶えるぞ」
「希望……」
アレスの言葉を反芻すると、レナータは何やら黙り込んでしまった。
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