幻影に、さよならを
慎重に抱擁した瞬間、レナータの身体はリヒャルトの腕の中にすっぽりと納まってしまい、こんなにも小さかったのかと、驚嘆させられた。抱き寄せた腰も細く、視界に映る肩も華奢で、強い力を込めたら、あっという間に壊れてしまいそうだ。アレスはよく、何の躊躇いもなく、レナータを抱きしめられるものだ。
こうして見てみると、改めて今のレナータはただの少女でしかないのだと、痛感させられた。リヒャルトが恋い焦がれてやまなかった女神は、もうどこにもいないのだと、否応なく現実を突きつけられる。
「――レナータ」
リヒャルトの位置からは、レナータの顔を窺い見ることはできない。でも、微かに強張った肩や、ぎゅっと握り締められている両の拳から、緊張した面持ちをしているのではないかと、察することはできた。
「もし……君が安心して生きていけるように、そのためだけに私がクーデターを起こしたのだと言ったら、馬鹿な男だと笑うか?」
そう問いかけておきながら、随分と卑怯な質問だと、我ながら思う。レナータの性格上、否定することはありえないと分かっているのに、わざわざ声に出して訊くなんて、自分が望む言葉を引き出そうとしているようなものだ。
数拍の間を置いた後、レナータは緩慢とした動作で顔を上げた。相変わらず、何もかも見透かしてしまいそうな澄んだ翡翠の瞳が、リヒャルトをひたと見据えてくる。
そして、かつて人類の守り神と呼ばれていた少女は、もう一度ふわりと微笑んだ。
「――笑わないよ。笑ったりなんか、絶対にしない」
――ああ、やはりレナータは、相手が欲する言葉を、惜しみなく捧げてくれるのだ。
「……今まで、私の知らないところで、私のためにリックの時間もお金も使ってくれて、ありがとう」
透明感のある柔らかい声が紡ぐ、心地よい言葉が胸を打つ。
「大変だったよね? 本当は、もっと自分のために生きたかったよね? 私に、直接感謝されるわけじゃなかったのに、ずっと努力し続けるのって、息苦しくなる時だってあったよね?」
そうだ、レナータの言う通りだ。
レナータに認めて欲しくて始めたことだったが、何度も何度も、途中で投げ出してしまいたくなる瞬間は訪れた。
だが、それでも歩みを止めることはなかった。だから、こうして今、レナータはリヒャルトの腕の中にいるのだ。
「正直……リックたちがしたこと、私には正解だったのかどうか、よく分からない。でも、これだけははっきり言える」
少しふっくらとした柔らかそうな唇に浮かぶ微笑みが、より深まっていく。
「――少なくとも私は、リックに救われたよ。だから、今までたくさん助けてくれて、本当にありがとう」
――その言葉が耳朶を打った刹那、これまでの全ての努力が報われた気がした。
同時に、リヒャルトの胸の中にずっと居座り続けていた想いを吐露しても、レナータならば受け止めてくれるのではないかという期待に突き動かされ、震えそうになる声を喉の奥から絞り出した。
「……レナータ」
「うん」
「人類の守り神と呼ばれていた、かつての君を……ずっと愛していた」
そう告げても、レナータの笑顔は崩れない。
「愛して……いたんだ」
しかし、抱きしめ返してくることは、決してなかった。むしろ、一際強く拳を握り締めている。その上、ここにはいない弟の代わりと言わんばかりに、レナータの左手の薬指に嵌められている指輪に照明の光が反射し、威嚇するかのごとく美しい輝きを放っている。
「……ありがとう」
その代わり、リヒャルトを突き放すこともなかった。ただただ、大人しくリヒャルトに抱き竦められている。きっと、これはレナータなり の譲歩の証なのだろう。
その優しさに内心感謝しつつも、レナータの身体を戒めていた両腕を、ゆっくりと解いていく。
レナータを解放した途端、タイミングを見計らっていたかのように、乱暴に会議室の扉が開け放たれる音が室内の空気を震わせた。まるで、蹴破ったのではないかと思うほどの勢いだ。
リヒャルトが後ろを振り返ろうとした直前、ずかずかと会議室に入ってきた弟が、足早に横をすり抜けていった。そして、レナータの元に辿り着くや否や、華奢な肩をぐっと抱き寄せた。
レナータがきょとんと目を瞬かせていたのは、ほんの僅かな間だけだ。
弟の顔を見上げる翡翠の瞳は、たちまち熱を孕んで潤み、本物の宝石に負けないくらい、きらきらと輝いている。紅潮した頬は緩み、少しふっくらとした柔らかそうな唇は、幸せそうに綻んでいる。
レナータが弟に向けている表情は、紛れもなく女の顔と呼べるものだった。
「――いい加減、レナータを返してもらうぞ。 リヒャルト」
リヒャルトの前では決して見せることがなかった表情に目を奪われていたら、弟がそう宣言してきた。
弟へと視線を移せば、獰猛な獣を連想させる琥珀の瞳が、リヒャルトをきつく睨み据えていた。もし、弟が本物の獣だったならば、間違いなくリヒャルトの喉笛に食らいついていただろう。
「……まるで、物扱いだな」
苦笑いを浮かべながら、皮肉交じりにそう言い返せば、弟の目がますます剣呑に細められていく。
「レナータを一人の人間として認識した上で、言わせてもらっただけだ」
渦中の人物であるレナータは、リヒャルトたちの言葉の応酬に、口を挟む様子は一切ない。同性同士の諍いに異性が割り込むのは野暮だと思っているのか、先程までの表情を消し去り、静かに事の成り行きを見守っている。
「……もう、用は済んだだろ。そろそろ帰るぞ、レナータ」
「うん、そうだね」
兄弟を交互に見遣っていたレナータは、弟にそう声をかけられると、素直に頷いた。
レナータと顔を見合わせるなり、弟は盛大な溜息を零しつつも、華奢な肩を掴んでいた手を放し、今度は指輪が存在を主張している左手にするりと指を絡ませた。すると、レナータはすかさず弟の手を握り返した。
それから、弟はもうリヒャルトには見向きもせず、扉へと向かう。弟に従順についていくレナータはすれ違いざまに、申し訳なさそうな面持ちでリヒャルトに軽く会釈をしてくれた。
先刻とは違い、あまり音を立てずに扉が閉まった瞬間、自然と唇から深い溜息が零れ落ちてきた。
「――さようなら、『レナータ』」
そして、吐息と共に別れの言葉も出てきた。
どこがいいのか、全くもって理解できないものの、レナータはあの弟を生涯の伴侶に選んだのだ。だから、これから先も、親族として顔を合わせる機会は、いくらだってあるに決まっている。
でも、それでも口に出しておきたかったのだ。 愛しの女神と決別し、近い将来、義妹となる少女を受け入れるためにも。
会議室に一人取り残されたリヒャルトは、そっと目を閉じた。
だが、もう瞼の裏に女神の幻影がちらつくことはなかった。
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