負け戦

(そもそも、今のレナータは――)


 今のレナータは果たして、リヒャルトの存在を覚えているのだろうか。

 リヒャルトがかつてのレナータと最後に会ったのは、もう十八年以上前の話だ。それから、レナータは人間として、十八年分の記憶を積み重ねてきたのだ。それ以前の思い出など、すっかり色褪せてしまっているに決まっている。

 そもそも、どれほど人工知能だった頃の記憶が、今のレナータの脳に受け継がれているのかも、リヒャルトは知らないのだ。


 弟と言葉を交わしている様子を見た限りでは、今も昔も、性格にそれほど違いがないように感じられたが、今のレナータはアレスと十八年間、生活を共にしてきたのだ。認識の擦り合わせなど、とうの昔に済ませているだろうし、今の二人は楽園にいた頃とはまた違った思い出を作り上げ、新たな関係性を構築しているはずなのだ。


 ――あの完成された光景に、自分が割り込むことなんて、できやしない。

 仲良く連れ立って歩いている二人の後ろ姿が遠ざかっていくにつれ、胸の奥底からそんな想いが込み上げてきた。


 とっくの昔に忘れ去られているかもしれないリヒャルトが、弟に太刀打ちできるはずもない。声をかけたところで、理想と現実の違いに打ちのめされるだけだ。

 きゅっと唇を噛み締めると、まるで逃げるように二人から目を逸らし、ようやくその場から離れていく。足を動かせば動かすほど、だんだんと速度が上がっていく。

 そうして、二人に認識されることすらなく、リヒャルトは第三エリアを後にした。



 ***



 苦々しい思いと共に胸を過っていった記憶に、ひっそりと自嘲の笑みを浮かべる。


(私も……随分と、馬鹿な男だな)


 クーデターの後始末をする中で、レナータを楽園へと連れ戻した元凶である、ルートヴィヒ=フレーベルが死亡していたことが発覚した。遺書などは見つからなかったものの、状況的におそらく自殺に違いない。

 どうして自殺したのか、もう知る由もない。だが、ルートヴィヒの今までの行動を調べ上げていくにつれ、決して他人事とは思えなくなってきた。

 一歩間違えれば、きっとリヒャルトも似たような末路を辿っていたのだろう。そうならなかったのは、リヒャルトはルートヴィヒみたいに正気も理性も失っていなかったのと、単純に運がよかっただけに違いない。


 そこまで思考を巡らせたところで、扉をノックする音が鼓膜を叩いた。そこで、意識が現実へと引き戻され、即座に表情を取り繕う。


「――どうぞ」

「失礼します」


 一言そう断ってから、静かに扉が開かれていく。すると案の定、弟に呼びにいかせたレナータが姿を現した。

 室内に足を踏み入れたレナータは、やや遠慮がちではあったものの、リヒャルトの傍に寄ってくると、不思議そうに見上げてきた。リヒャルトから突然二人きりで話がしたいと言われても、レナータからしてみれば、何の話なのかと全く見当がつかないのだろう。


 改めてレナータと向き合い、爪の先から頭のてっぺんまで眺めてみても、やはり特に何の感慨も湧かない。人類の守り神と呼ばれていたバイオノイドと、瓜二つの顔立ちをしている少女が、ただそこに立っているだけだ。

 そんなことを考えている間にも、かつての神秘的なマリンブルーの瞳とは似ても似つかない、澄んだ翡翠の双眸が、相も変わらずリヒャルトをじっと見つめてくる。


「……わざわざ呼び出すような真似をして、すまなかったな」

「ううん。私は大丈夫だから、気にしないで」


 つまり、弟はあまり大丈夫ではないのだろう。現に、レナータは廊下の方を気にする素振りを見せている。


「こうして、改めて見てみると……随分と変わったな。 レナータ」


 本当に、レナータはすっかり変わってしまった。

 無機物から有機物に変わったことはもちろんだが、特にレナータが纏う雰囲気が様変わりしている。


 昔から、天真爛漫なところはあったものの、時々垣間見せていた憂いというものが、今では霧散している。人ならざる者だったからこそ持ち合わせていた純真無垢なところも、博愛の精神も、無償の愛を信じられるほどの母性も、今のレナータからは見受けられない。

 今のレナータは容貌こそ以前と変わらないが、明るく親しみやすく、可愛らしい――弟の言う通り、どこにでもいそうな少女に成り下がってしまっている。


 口にこそ出さなかったものの、まっすぐに向けられている翡翠の眼差しには、リヒャルトが何を思っているかなんて、見抜かれてしまった気がする。

 少しふっくらとした柔らかそうな唇が、苦い笑みを零したかと思えば、今度は透明感のある柔らかい声がそこから溢れ出してきた。


「……やっぱり、リックもそう思う?」


 レナータが小首を傾げると、その動きに合わせて艶やかなダークブロンドがさらりと揺れる。丁寧に編み込みが施された箇所が髪に覆い隠されてしまった拍子に、白くて華奢な指先が一房のダークブロンドを耳にかけた。


「アレスは『レナータは、レナータだ』って言い張るし、私も『自分は自分』って考えているけど……昔の私を知っている人から見たら、全然違うよね」


 ――ああ。こういうところでも、あの弟には勝てないのか。

 苦い笑み交じりに告げられた言葉が鼓膜を揺さぶった刹那、そう思い知らされた。


 弟の言葉は、十中八九レナータが欲してやまなかった言葉に違いない。レナータが望むものをあっさりと差し出してみせる弟に、以前のリヒャルトならば、胸が焦げつきそうな想いを持て余していたところだろうが、今では辛うじて受け止めることができた。


(もう……やめよう)


 ならば、幼い頃から追いかけ続けてきた幻影に、そろそろ別れを告げるべきなのかもしれない。そうすれば、リヒャルト自身が楽になれるのではないだろうか。


「レナータ……一つ頼みがある」

「なあに?」


 ぎゅっと拳を握り締め、密かに深呼吸をしてから、言葉を継ぐ。


「無理強いするつもりはない。だが、許されるならば……一度だけ、抱きしめさせてくれないだろうか」


 そう問いかけた途端、翡翠の瞳が驚いたように見開かれた。何か言おうとしたのか、少しふっくらとした柔らかそうな唇がうっすらと開いたものの、透明感のある柔らかい声が零れ落ちてくることはなかった。


 二人の間に、突如として沈黙が流れる。

 それは、長い時間ではなかったのかもしれない。数十秒か、せいぜい長くても一、二分くらいだったに違いない。

 しかし、リヒャルトにとっては、緊張で喉が干上がるほど、ひどく長く感じられた。


 やがて、レナータがゆっくりと瞬きをした直後、少しふっくらとした柔らかそうな唇にふわりと微笑みが浮かんだ。その微笑みが、かつてのレナータが見せた笑顔と重なって見え、思わず息を呑む。


「――うん、いいよ」


 微笑みを絶やさないレナータは、やはりリヒャルトをまっすぐに見つめてくる。嫌悪感も警戒心も砂粒ほどにも見せず、ただそこに穏やかに佇んでいる。

 リヒャルトが一歩足を踏み出しても、レナータは微動だにしない。春の柔らかな日差しみたいな笑顔で、リヒャルトを見守ってくれている。

 そして、レナータのすぐ目の前で立ち止まった直後、壊れ物を扱うかのごとく、おそるおそるその身体を抱き寄せた。

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