壊れゆく幻想
『男も女もね、自分が一番辛い時に一番近くにいてくれた人を好きになるものなのよ? 実は、陰ながら貴女を支援していましたって言って、惚れる女がいると思う? それ、一歩間違えれば、ストーカー行為よ? 中には「まあ、嬉しい!」って、ちゃっかり玉の輿に乗る女もいるでしょうけれど、少なくともあの子はそういうタイプじゃないわ』
「……そこまで、デリカシーのない発言をするくらいなら、何故レナータの身に降りかかった脅威に気づけなかった?」
『仕方ないでしょ、私も完璧な人間ではないもの。でも、あの番犬くんがお姫様を襲った馬鹿どもを半殺しにしたのは、想定の範囲内だった けど……まさか、貴方がとどめを刺しちゃうとわね』
ロザリーの言葉を耳にした刹那、あの忌まわしい秋の出来事が脳裏に鮮明に蘇ってきて、舌打ちを零しそうになる。その寸前に唇を噛んでから、喉の奥で絡まりそうになっていた声を押し出す。
「あのまま放置されている方が、余程辛そうだったからな。一思いに、楽にしてやっただけだ」
『あら、怖い。やっぱり、血は争えないわね』
携帯端末越しに、くすくすと漏れ聞こえてくる、ふわりと匂い立つような色香を纏った笑い声に、つい眉間に皺を寄せる。
あの愚弟と似ていると言われるのは、あまり好きではない。
弟みたいな天賦の才があるわけではないのだと、劣等感に苛まれる上、あんな馬鹿な真似は、自分ならば絶対にしないという反発心もあり、非常に複雑な心地になるからだ。
『なら……試しに、愛しのお姫様に会ってみたら? もう、あれから二年近く経って、あの子たちは第三エリアに引っ越したんだもの。スラム街とは違って、正式に認められているエリアにいるんだから、楽園の住人様でもそこなら行けるでしょう?』
笑いを収めたロザリーから、急にそんな提案を受け、ますます眉間に刻んだ皺が深まっていく。何がどうなったら、「なら、会いにいってみたらどうか」という話になるのか。
「……何故、そうなる」
『だって貴方、人間に生まれ変わったお姫様に、まだ一回も会ったことがないんでしょう? 案外、人間のお姫様には心動かされないかもしれないじゃない。それを確かめるためにも、顔だけでも見ておいたらどう?』
何だか面白がられているような気がしてならないが、確かに今のレナータたちの様子を確かめるためにも、二人が住んでいる街に足を運んでみるのもいいかもしれない。
一つ溜息を零してから、言葉を続ける。
「……そうだな。一度、顔を見ておくのもいいかもしれない。スケジュールの調整ができたら、行ってみようと思う」
『そう。いい男は、忙しいのね』
ロザリーはやはりからかうような口振りで話を締めくくり、一方的に通話を切った。
ロザリーが使える人間であることには変わりはないのだが、どうにもいけ好かない女性だ。利害関係が一致していなければ、確実に関わり合うことがなかった人種だ。
再度溜息を吐きながら、レナータの顔を見にいく日を確保するべく、スケジュールの調整に取りかかった。
***
第三エリアに足を運んだ日は、春の嵐に見舞われることもない、暖かな陽気の日だった。
(確か、レナータたちはこの辺りに住んでいるはずなんだが……)
無事、休日を作ったリヒャルトは、レナータたちが暮らしているアパートの周辺を散策していた。
今日は一応、一般的には休日に当たる日なのだが、二人の現在の勤務形態は、報告によるとスラム街にいた頃と変わらないらしい。だから、弟にとっては仕事が休みの日でも、レナータにとってはそうではないかもしれない。
さりげなく二人が暮らしているアパートを観察してみたものの、楽園在住のリヒャルトにとっては、可もなく不可もない物件だった。
金銭面の問題があるから、ここを選んだに違いないが、年頃の娘が暮らしているのだから、もう少しセキュリティの手厚い賃貸物件を借りればよかったのにと、思わずにはいられない。
吐息を零しつつアパートから離れ、多くの店が軒を連ねている大通りへと向かうと、どこか聞き覚えのある笑い声が、どこからともなく聞こえてきた。
(この、声は――)
もう随分と遠く、朧げになりつつあった過去の残像が、耳の奥に蘇ってくる。
間違いない。あの、透明感のある柔らかい声は、レナータのものだ。
はっと息を呑んで辺りに視線を走らせれば、前方からこちらに向かってやって来る、一組の男女の姿があった。二人とも、互いに意識を向けているらしく、こちらには目もくれない。濡れ羽色の髪と琥珀の瞳の持ち主である男は、ダークブロンドと翡翠の瞳の持ち主である少女の周囲に気を配っているみたいだが、やはり意識の大部分は隣にいる存在へと割かれている。
一瞬だけ、その琥珀の眼差しがこちらへと向けられた。しかし、すぐにリヒャルトから視線が逸れ、隣の少女へと注がれる。
その顔を目の当たりにした途端、弟だとすぐに分かった。幼い頃の面影が色濃く、何より写真に残っている亡き父と外見がそっくりだ。
でも、問題はそこではない。
(――あれは、誰だ?)
弟の隣に寄り添うようにして歩いている少女の顔を視界に映した瞬間、そんな疑問の声が胸中で上がった。
その容貌は、かつてのレナータの生き写しと表現しても差し支えがない。驚くほど長かった白銀の髪とは異なり、ダークブロンドをボブカットにしており、瞳の色はマリンブルーから翡翠へと変わっていたものの、それでも昔のレナータを彷彿とさせるには、充分だ。
だが、その上で、リヒャルトの記憶の中のレナータと、レナータ=アードラーと思しき少女の姿は重ならなかった。
弟の隣で無邪気に微笑む少女からは、とてもではないが、人類の守り神という呼び名に相応しい神秘的な雰囲気は、微塵も感じられなかった。かつてのレナータと瓜二つの美しさを持ち合わせていても尚、あの神々しいまでの美しさは再現できていない。どこか物憂げな眼差しも、 慈愛に満ちた微笑みも、今では失われている。
リヒャルトが茫然と立ち尽くしている間にも、二人はこちらに近づいてくる。買い物帰りなのか、弟の手にも少女の手にも、エコバッグが握られていた。
「――レナータ、重くないか」
思い出の中に残っている声よりもずっと低い声が、不意に鼓膜をくすぐっていく。
「このくらい、大丈夫だよ! 今日は、月に一度の焼肉パーティーの日だもの。お肉、しっかり買い込んでおかないとね! しかも、今日はお肉が安かったし! この間、ホットプレートも買い替えたばかりだし! 何だか、幸先いいね!」
「肉だけじゃなくて、野菜もちゃんと食えよ」
「もう、小さい子供じゃないんだから、野菜くらい、言われなくても食べますよー」
リヒャルトの横を通り抜けていく最中、街中で突っ立っている男を弟がちらりと一瞥したものの、またすぐに隣の少女――レナータとの会話へと戻っていく。どうやら、街中ですれ違った男が自分の兄だとは、気づかなかったみたいだ。
その場で棒立ちになっている男を、通行人たちは鬱陶しそうに避けながら通り過ぎていく。しかし、そんな有象無象の人々に注意を払う余裕など欠片もなく、そっと後ろを振り返る。
二人の後ろ姿は、すぐに見つかった。未だに寄り添い合うようにして歩いており、楽しそうに会話を交わしている様子が、ここからでも確認できた。
挙がってきた報告を確認した限りでは、二人は決して楽な暮らしをしているわけではない。先刻、僅かに漏れ聞こえてきた言葉の端々からも、慎ましい生活を送っているのだと、察することができた。
でも、それでもあの二人はひどく満たされているように見えた。その後ろ姿は、あまりにも平和で、穏やかで、幸福の象徴のようだとさえ思えてくる。
――男も女もね、自分が一番辛い時に一番近くにいてくれた人を好きになるものなのよ?
その時、何の前触れもなく、ふわりと匂い立つような色香を纏った声が、鼓膜にありありと蘇ってきた。
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