理想と現実
――初めて人類の守り神を目の当たりにした刹那、幼いリヒャルトは息が止まるかと本気で思った。
それほどまでに、人類の守り神と謳われたバイオノイドは、その呼び名に相応しく、神秘的で美しかった。
信じられないくらいに長い、白銀の髪も。妖精でも身に着けていそうな、豪奢でありつつも軽やかな印象を受ける純白のドレスも。可憐な微笑みを浮かべる、少しふっくらとした柔らかそうな唇も。耳に心地よく響く、透明感のある柔らかい声も。
そして何より――マリンブルーの大きな瞳は、吸い込まれてしまいそうなほどだった。
だから、馴れ馴れしく話しかけることなんて、到底できるわけがない。
それなのに、リヒャルトよりもさらに幼かった弟は、身の程知らずにも、まるで親鳥を慕う雛みたいにレナータにじゃれついていた。はっきりと、独占欲を見せていた。見苦しいくらいに、嫉妬を露わにすることもあった。
しかし、レナータはそんなアレスに嫌悪を見せることは、ただの一度もなかったのだ。むしろ、喜んで受け入れているような節さえあった。
自分に懐いてくる子供を可愛がり、我儘に付き合い、互いに笑い合うその姿は、無償の愛を与える母のようにも、歳の離れた弟を可愛がる姉のようにも見えた。そんなレナータは、第一印象とは異なり、ひどく人間臭かった。
でも、それで幻滅することはなかった。かえって、少しは肩の力を抜いてレナータと会話ができるようになったくらいだ。
レナータがこうやって稼働していられるのは、あとほんの少しの間だけだ。楽園の住人の一人であるリヒャルトは、そのことを正しく理解していた。
だから、その間だけならば、透明感のある柔らかい声に耳を傾けても、許されるに違いない。マリンブルーの眼差しの先に何があるのかと目で追っても、罪にはならないだろう。
リヒャルトは、そうやってささやかな幸せを噛み締めるだけで充分だった。そう信じていた。
――それなのに、レナータが永遠の眠りに就いてからしばらく経った頃、あの恥知らずな弟はある日突然失踪したのだ。
しかも、弟が失踪したのとほぼ同時期に、エリーゼ=アードラーが自らの娘の脳に、レナータの記憶や人格データを移植したことと、その子供を連れて夫婦ともども行方を眩ませたことが発覚したのだ。
そこまで分かれば、あの愚弟はレナータが産まれて間もない赤ん坊に生まれ変わったのだと信じ、その後を追ったのだろうと、容易に想像がついた。
同時に、なんて愚かなのかと、弟に憐れみと怒りを覚えた。
その上、弟の楽園からの逃亡には、母も加担したのだというのだから、始末に負えない。
どうして、母も弟も、平然と常軌を逸した行動を取れるのか。
母は、実験動物に過ぎなかった父を心の底から愛し、人間として扱った。
弟は、グラディウス族の中でも最高傑作だと謳われるほどの天才児だったにも関わらず、あろうことか人類の守り神をただの女の子扱いし、分不相応な恋情を抱き、その想いで身を滅ぼそうとしている。
何故、二人とも、もっと平穏な生き方ができないのか。
そんな母親と弟を持ち、産まれた時から普通ではないと見なされているリヒャルトが、どんな思いで生きているのか、想像したことさえないというのか。
できることならば、もっと普通の家庭に産まれてきたかった。
そして、それ以上に、リヒャルトが多くの時間を費やし、努力を重ねなければ手に入れられないものを、容易く手に掴んでみせ、劣等感ばかり煽ってくる弟が、憎たらしくてたまらなかった。
そんな胸が焦げつきそうな激情を抱えながらも生きるリヒャルトに構わず、母は秘密裏にもう一人の息子との接触を果たしたのだと、これまたある日唐突に告げられた。
弟は元気にアードラー一家と一緒に過ごしており、レナータも無事、人間の女の子として生まれ変わったのだという。
その事実を耳にした途端、より一層弟への劣等感が煽られた。
どうして、弟はレナータが人間の女の子に生まれ変わることができるのだと、愚直なまでに信じられたのだろう。何故、迷わずレナータの後を追いかけ、その手を掴み取ることができるのか。
やはり、弟は特別なのか。出生こそ特殊ではあるものの、それ以外の点は平凡な自分では、一生敵わないというのか。
だが、そこまで考えたところで、ふとあることに気づいた。
アードラー夫妻も、母も弟も皆、計画が穴だらけだ。いくら気をつけたところで、このままではいずれ楽園の手の者に居所を突き止められてしまう危険性がある。皆、そのことに気づいていないのだろうか。あるいは、これから計画の穴を埋めていくつもりなのだろうか。
しかし、いずれにせよ、保険があるに越したことはない。ならば、どれほど時間がかかろうとも、いつかレナータが追っ手の目を掻い潜らなくても済む生活を送れる準備をしていこう。
そうしたら、レナータはリヒャルトの努力と熱意を褒めてくれるだろうか。もう二度とリヒャルトを置いて、アレスと一緒にこちらに背を向け、走り去るようなことはないだろうか。
あのマリンブルーの瞳で見つめ、抱きしめてくれるだろうか。
でも、そんな淡い願望は、今から約一年前の春に打ち砕かれることになった。
***
『――馬鹿ね』
リヒャルトの努力と想いを、鼻で笑って一蹴したのは、ロザリーだった。
ロザリーはスラム街出身で、娼婦として働いていたのだが、 酔狂な第一エリアの住人だった客に身請けされた女性だ。
ロザリーは決して愚鈍な女ではないのだが、さすがに客の男の家庭環境まで見抜けなかったのだろう。
客の男は妻帯者だったにも関わらず、ロザリーを内縁の妻とするべく連れ帰ったみたいで、危うく正妻に殺されるところだったと、ころころと笑いつつ平然と言い放った。もっと男を見る目を養わなければ駄目だとも、自嘲していた。
そして、ロザリーが客の男と妻の泥沼から命からがら逃げた先で、偶然出会ったのが、リヒャルトだ。
ロザリーを一目見た瞬間、この女は使えると直感した。自らの直感に従い、その場でロザリーを保護し、詳しい話を聞いてみたところ、自分の勘は外れていなかったと判明した。
ロザリーは、リヒャルトが一度も足を踏み入れたことがない、スラム街の出身だった。その頃には、ちょうど弟が幼いレナータを連れてスラム街へと逃げ込んでいたため、その場所に精通している人材が欲しかったのだ。
しかも、ロザリーは頭の回転が速く、機転も利く女性だ。立ち回りが上手なロザリーは、まさにスパイに打ってつけの存在だった。
話を持ちかけた当初は、どうやら弟たちが逃げ込んだ先が、ロザリーの出身地だったらしく、故郷に残した家族と万が一でも顔を合わせる羽目になったら嫌だと渋られた。だが、リヒャルトが報酬額を提示したら、渋々とではあったものの、話を受けてくれた。
それから、数えきれないほどの定期報告を受けていた折、これまで抱えていた想いをふと零してしまったら、嘲笑を向けられたのだ。
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