嫌な予感

「――あら、レナータではありませんか」


 声をかけてきた相手が男性だったならば、無視していたところだったが、相手は女性である上、聞き慣れた声だったから、窓から視線を引き剥がして振り向く。

 すると、コーヒー飲料が入ったグラスを片手に、レナータの傍に立っていたミナーヴァと目が合った。


「あ……ミナーヴァさん、こんにちは」

「こんにちは、レナータ。 席をご一緒しても構わないかしら?」

「はい、どうぞ」


 相手は近いうち、義母となる人だ。そんな人からの誘いを、無下にはできない。そもそも、ミナーヴァと一緒にいることは、苦痛でも何でもないから、本当に構わない。


「それじゃあ、失礼しますね」


 にこやかにそう断ったミナーヴァは、レナータの正面の席に綺麗な所作で腰を下ろした。そして、レナータと同じようにグラスにストローを差し入れ、コーヒー飲料を一口飲んだ。

 この間は、ホットのブラックコーヒーを飲んでいたが、今日の飲み物は黄みがかったかなり淡い茶色だから、今回は違う飲み物を選んだのだろう。ただ、レナータが飲んでいるアイスキャラメルマキアートよりも、液体の色が淡いため、キャラメルマキアートではないことは、確かだ。


 何を飲んでいるのかと、思わずじっと見つめていたら、アレスとそっくりの琥珀の眼差しと、翡翠の眼差しが絡み合う。


「これ、気になります?」

「あ、ごめんなさい。つい、じろじろ見ちゃって……」

「いいえ、お気になさらず。――これは、アイスのハニーミルクラテです。蜂蜜の甘さが優しくて、おいしいですよ。意外と、甘さがくどくないんです」


 前回、ブラックコーヒーを飲んでいるところを見ていただけあり、レナータが飲みそうな甘い飲み物を口にしていたとは、予想だにしていなかった。


「へえ……それは確かに、おいしそうですね」

「ええ。たまに、どうしてもこういう甘いものが飲みたくなっちゃう時がありまして」


 レナータは大体いつも、甘いものを欲しているため、ミナーヴァの発言に曖昧に微笑む。


「レナータが飲んでいるのは、何でしょう?」

「あ、これは、アイスのキャラメルマキアートです。これも、おいしいですよ」

「ああ、キャラメルマキアートだったんですね。私もそれ、好きですよ。――ところで、話は変わりますけれどレナータは今日、リックに会いにきたんですよね? アレスと一緒ではなかったのですか?」

「ああ……何だか、リックがアレスに用事があったみたいで。それで、私はここで待っているんです」

「なるほど、そういうことだったんですね。レナータが一人でいるから、何事かと思ってしまいましたよ」

「心配してくれて、ありがとうございます。 そういうミナーヴァさんは、どうしてこちらに?」

「私も、リックに呼ばれてきたのですよ。引っ越しの手続きやら何やら、やらなきゃいけないことがたくさんあるんですけれど、それについて話したいことがあるらしくて。でも、約束していた時間よりも、私が早く着いてしまったので、ここで甘いものでも飲みながら時間になるまで待っていようと思ったんです。そうしたら、レナータを見かけて」


 そこからも、話はぽんぽんと弾んでいく。同性同士という気安さからなのか、もしくは案外レナータとミナーヴァは性格の相性がいいのか、会話の種が尽きることはない。


 互いに購入した飲み物を味わいながら、取り留めもない会話を楽しんでいたら、ふとレナータたちが座っている席に近づいてくる足音が聞こえてきた。そちらへと目を向ければ、アレスがレナータたちの元へと歩み寄ってくるところだった。


「あ、アレス。おかえりなさい、早かったね」

「ただいま。……ああ、俺への話自体は、そんなに長くなかったからな」

「アレスも、何か飲む?」

「いや、今はいらねえ。つうか、母さんも来ていたんだな」

「ええ、お母さんもリックに呼ばれましたので」

「ふうん……おい、レナータ。 リヒャルトの奴が、今度はレナータと二人で話がしたいんだと」

「……私と?」


 思いがけない言葉をかけられ、ぱちぱちと忙しなく目を瞬かせていると、ミナーヴァがどこか面白がるような声を上げた。


「あら、修羅場ですか?」

「……そうならねえことを、心の底から祈っている」


 息子の返事に、ミナーヴァは余計に楽しそうに目を輝かせている。一応、他人事ではなく、自分の息子たちのことなのだから、そこまで面白がらずに事態を収束させて欲しい。


 そっと溜息を吐き、最後の一口を吸い上げると、席を立つ。アレスたちが思っているような用件なのかどうかは、実際にリヒャルトと話してみないことには分からない。ならば、面倒ごとはさっさと片付けるべきだ。


「分かった。じゃあ、私はリックのところに戻るね」

「俺も、一緒に行く」

「……リックは、私と二人で話がしたいんじゃなかったっけ?」

「レナータと二人きりで話をしたいなら、廊下で待機させてもらうって、条件を出したんだ」


 つまり、リヒャルトがその条件を呑んだから、アレスはレナータを呼びにきたということか。何だか、ますます修羅場っぽくなってきた。案の定、ミナーヴァは好奇心を隠せていない。


「アレスが心配しているようなことには、ならないと思うけどなあ……」


 苦笑いを浮かべつつ、自身の左手の薬指に視線を落とす。そこには、アクアマリンと真珠があしらわれ、薔薇を象っている指輪が納まっている。決して目立たないわけではないのだから、リヒャルトもこのエンゲージリングは目にしたはずだ。


「あら。それ、やっぱりアレスからもらった指輪だったのですか?」

「は、はい。そう、です……」


 視線を上げれば、ミナーヴァはレナータの左手の薬指に琥珀の眼差しを注いでいた。

 照れ臭さから目を泳がせながらも、何とか首肯すれば、近い将来、義理の母となる人は嬉しそうに微笑んでくれた。


「やっぱり。薬指の指輪といえば、大体が婚約指輪 結婚指輪って、相場が決まっていますからね」


 会話を交わしている間、ずっと指輪の話題には触れなかったため、てっきりただのアクセサリーとして認識されているのかと思っていたのだが、指輪を嵌めている指の位置から、その意味するところを見抜かれていたみたいだ。それに、アレス自身がレナータと結婚する旨を遠回しに伝えていたのだから、そう考えるのが自然だろう。


「それじゃあ、ミナーヴァさん。お先に失礼しますね」

「レナータったら、お義母さんって呼んでくれてもいいんですよ?」

「……努力します」


 まだ再会してから間もないというのに、いきなり「お義母さん」呼びは、ハードルが高い。せめて、アレスとの入籍を済ませてから、挑戦させて欲しい。

 複雑な心地でミナーヴァに軽く会釈すると、アレスと一緒にリフレッシュスペースを後にした。

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