だから、どうか

 これからの生活は、今までの生活に比べれば、ずっと自由度が上がるはずだ。だから、これまでやりたくてもできなかったことや、新しく挑戦してみたいと思うことがあるのならば、できるだけ叶えていきたい。


 例えば、レナータは花を見るのも育てるのも大好きだから、ガーデニングとかに興味を持っているかもしれない。

 仮に、そうだとすれば、ガーデニングを楽しめるだけの広さを有するベランダがある賃貸物件を借りてもいいし、予算内に収まるのであれば、一軒家を買ってもいいかもしれない。もう見えない追っ手から逃げる必要はないのだから、アレスとしては家を購入することになっても構わない。


「まあ、まずは引っ越し先と転職先を探さなきゃいけねえから、今すぐ思いつかなくてもいいからな。ゆっくり考えてみてくれ」


 別に、急かしているわけではないのだと、レナータの頭を撫でる手つきをさらに優しいものにする。

 しばし、レナータは目をやや伏せ気味にして考え事をしていたみたいだが、やがておずおずと視線を上げた。


「……あの、ね。今すぐってわけじゃないんだけど……」


 そう切り出してきたかと思えば、レナータは何故か頬を赤らめ、再度双眸を伏せてしまった。何なら、アレスの胸元に突っ伏そうとしたものだから、レナータの顔が直撃する前に素早く手を差し込み、防御する。


 アレスは五年前、口紅は一度付着するとなかなか落ちないものなのだと、学習したのだ。今のレナータは淡い色ではあるものの、口紅を塗っているのだから、白いシャツに顔を押しつけようものなら、口紅がついてしまう。それに、他の化粧品の色もシャツに移ってしまいそうだ。

 スーツとワンピースの皺を取り除く約束はしたが、化粧品の色移りを落とす約束までは交わしていない。そもそも、皺を取る作業よりも面倒臭そうだから、なるべくやりたくない。


 赤くなった顔を隠せなくなってしまったレナータは、アレスを睨みつけてきたが、涙目で睨まれても、怖くも何ともない。むしろ、かなりいい眺めだ。


「……で? 今すぐってわけじゃねえけど、何だ?」


 しかし、ここでからかえば、レナータは貝のように口を閉ざしそうだ。

 レナータは本気で怒ると、ただひたすらに無言を貫く。憤りが鎮まれば、向こうから謝罪してくるのだが、それまでは延々と沈黙が続くのだ。


 だから、悪戯心など微塵も湧いていないと言わんばかりに、可能な限り優しい口調を心がけて続きを促せば、レナータは観念したのか、深く息を吐き出した。そして、今にも消え入りそうな声で囁いた。


「か……家族が、欲しい、の……」


 耳元に落とされた囁きの意味が、すぐには理解できなかった。

 でも、今では耳までうっすらと赤く染まっているレナータを目の当たりにしているうちに、ゆっくりと理解が進んでいく。同時に、どうしてレナータが恥じらっていたのかも、よく分かった。


「私を置いて、いなくなったりしない……家族が欲しい……」


 アレスが何の反応もできずにいたら、レナータがそう言葉を繋ぎ、思わず息を呑む。


(そうだったな、今までレナータの家族になった人間はみんな――)


 皆、レナータをこの世界に置き去りにし、消えていなくなってしまった。

 唯一、アレスだけが例外だ。そんなアレスが相手だからこそ、レナータは願ったのかもしれない。


 ――アレスは……いなく、ならないで……。

 十年前、涙ながらにそう懇願してきた幼いレナータの姿が、脳裏を掠めていく。


 今、アレスの目の前にいるのは、三千年以上の時を生きてきた、悠久の少女だ。

 一体、どれほどの命の誕生と喪失の瞬間に立ち会ってきたのだろう。どれほどの寂しさを抱え、生きてきたのか。


 きっと、アレスと出会うずっとずっと前から、自分の前から消えていなくならない家族を、レナータは望んでいたに違いない。

 だが、かつてのレナータは自らの命を繋ぐ手段を、何一つとして持ち合わせていなかった。

 だから、あくまでも人類の守り神として、数多の命が産まれては消えていく様を見守ることしかできなかった。


(……別に、恥ずかしがることじゃねえだろ)


 レナータは、自分の目的を叶えるための方法について思いを馳せ、恥じらいを覚えているのだろうが、アレスとしては、こんなにも切ない気持ちにさせておいて、何を恥ずかしがっているのかと、呆れを禁じ得ない。


「……何人、欲しいんだ?」


 レナータの頬に手を伸ばしてそっと触れつつ、そう問いかければ、眼前に迫る翡翠の瞳が驚愕に見開かれた。


「い……嫌じゃ、ないの?」

「なんで、俺が嫌がると思ったんだ」

「だってアレス、別に子供好きってわけじゃないでしょ? それに、子供を育てるのって、すっごく大変なことだから、すぐには受け入れてもらえないかもって、思ったの」

「おい。俺は、レナータを赤ん坊の頃から育ててきたんだぞ。今さら、育児の心配なんざしなくていい」


 何を心配しているのかと思えば、そういうことだったのかと、もう一度呆れを覚える。


「――で? 結局、何人欲しいんだ?」


 最初の質問へと戻ると、レナータは小さく唸ってから答えた。


「二人……かなあ。私、一人っ子だけど、小さい頃はアレスがお兄ちゃんみたいな感じで楽しかったから、一人っ子だと寂しいんじゃないかなあって……」


 レナータの言う通り、確かにアレスたちは兄妹のように育った。もし、産まれてきた子供が、レナータに似て寂しがり屋だったから、どのみち弟か妹を欲しがるかもしれない。


「ん。まだ決定事項にはしておかねえけど、頭には入れておく」


 滑らかな頬を撫でながら頷くと、思案顔になっていたレナータが、再びふわりと微笑んだ。


「……ねえ、 アレス」

「あ?」

「――この世界に産まれてきてくれて、ありがとう」


 ――いつか聞いた感謝の言葉が、今一度鼓膜を震わせた途端、息が止まるかと思った。


「私、アレスに会えて、本当によかった」


 アレスの顔を覗き込む翡翠の眼差しには、人工知能だった頃には考えられなかった、熱を伴った愛情が宿っていた。


「会えて、一緒に生きていくことができて、本当に幸せだよ」


 明るく弾んだ声からは、かつての憂いも寂しさも、欠片も感じられない。


「これから先も、きっと今までと一緒で、嬉しいことや楽しいことだけってわけにはいかないだろうけど……それでも私は、アレスと一緒にいたい。これからも色んなものを見て、聞いて、アレスと共有していきたい」


 レナータの頬を撫で続けていたアレスの手に、小さな手がそっと添えられた。


「だから……改めて、これからもよろしくね。――大好きだよ、アレス」


 レナータがそう言い終わったのかどうか、確認する余裕など砂粒ほどにもないまま、触れられていない方の手でダークブロンドに覆われた後頭部をぐっと引き寄せる。翡翠の海が視界いっぱいに広がった時には、互いの唇が重なり合っていた。

 触れるだけのキスを幾度も繰り返し、レナータの唇の強張りが解けたところで、口の中へと舌を侵入させていく。


 どれくらいの間、キスに没頭していたのだろう。唇がふやけ、境界線さえも曖昧になってきた頃にようやく離れると、レナータの息は再度荒くなっていた。


「――望むところだ」


 にやりと唇を笑みの形に歪め、そう告げれば、レナータは息を弾ませつつも幸せそうに笑った。


「レナータ」

「ん?」

「レナータこそ……この世界に産まれてきてくれて、ありがとうな」


 ――きっとこれから先も、何度だってそう思う瞬間が互いに訪れるのだろう。その度に、これからも想いを言葉にして伝えていこう。


「――愛している、レナータ」


 愛を囁いた瞬間、今度はレナータから唇を重ねてきた。軽く音を立てて触れるだけのキスを落とすと、瞬く間に離れてしまったものの、またアレスからレナータの唇を奪ったから、問題はない。


 ――レナータの言う通り、これから先の未来でも、嬉しいことや楽しいことだけというわけにはいかない。悲しいことや苦しいことが待ち受けているのはもちろんのこと、いつか二人が離れ離れになる日も必ずやって来る。そして、年齢を考えれば、アレスが置いていく側に回る可能性の方がずっと高い。


 だから、いつかその日が訪れても、レナータがただ悲嘆に暮れ、苦痛に喘ぐことがないよう、多くの思い出を作っていこう。立ち止まり、蹲り、声を上げて涙を流したとしても、また立ち上がり、前に向かって進む力に変えていけるような時間を、たくさん積み重ねていこう。レナータが生きていく糧となる命を、可能な限り繋いでいこう。


(俺にできることなら、やってやる。あげられるもんなら、くれてやる)


 ――だから、どうかレナータ。俺が大好きな笑顔を、これからも数えきれないくらい見せてくれ。

 そう願いながら、少しふっくらとした柔らかい唇を解放したら、アレスが大好きな笑顔を、この世界で最も愛しい女が見せてくれた。

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