大人の味
レナータたちの部屋にやって来たのは、初老の上品な男性のバーテンダーだった。
プライベートバーに足を踏み入れるなり、丁寧な挨拶をしてくれ、今はカウンターの裏側で手際よくカクテルを作ってくれている。
ちなみに、レナータは何を頼めばいいのか、メニュー表を眺めても全く見当もつかなかったため、プロに完全に任せてしまった。そんなレナータとは対照的に、アレスはホワイト・レディという、やたらとこじゃれた名前のカクテルを注文していた。
まだ作り途中ではあるものの、片方のカクテルは朱色で、もう片方のカクテルは淡い黄色に染まっているから、同じものを作っているわけではなさそうだ。
「ねえ、アレスが頼んだホワイト・レディって、どんなカクテルなの?」
バーテンダーの鮮やかな手つきから視線を外し、アレスへと振り向きつつそう問いかければ、カクテルが作られていく過程をぼんやりと眺めていた琥珀の瞳が、レナータを捉えた。
「ジンとホワイトキュラソーを、レモンジュースで割ったカクテルだ。飲みやすいが、アルコール度数は高いから、レナータはまだやめておけ」
「はーい」
でも、レモンジュースが入っているならば、おいしそうだと胸の内で呟く。
今のレナータは、どの程度アルコールに耐性があるのか未知数だが、もし極端に弱いわけではなかったら、少しだけ挑戦してみたい。
「アレスはそのカクテル、よく飲むの?」
「よくって言うほどは、飲まねえな。割と飲むことが多いのは、サワー系だな。まあ、カクテルを飲む時は、それを飲むことが多いが」
「飲みやすくて、おいしいから?」
「ああ。あと、名前が何となくレナータのイメージっぽいから」
アレスの返答に、思わず首を捻る。
確かに、アレスは今も昔も、レナータに花を贈る時は、欠かさず白い薔薇を選んでいる。それだけ、アレスの中ではレナータと白の結びつきが強いのだろうか。
(昔の私は、全体的に白っぽかったけど、今の私にそんなに白のイメージがあるかな……?)
だが、白い色が似合うと思われているのが、嫌なわけではない。むしろ、嬉しい。
「――お待たせいたしました。こちら、ホワイト・レディと、 カシスオレンジでございます」
アレスとそんなやり取りを交わしているうちに、注文したカクテルが出来上がったらしい。アレスとレナータ、それぞれの目の前にカクテルグラスと一般的な造形をしているグラスが、静かに置かれた。
(これ、本当にカクテルなのかな……?)
アレスのために用意されたホワイト・レディは、華奢なカクテルグラスに注がれており、いかにもカクテルっぽい見た目だ。淡い黄色の液体も、グラスの縁に飾られているレモンの輪切りも、爽やかで涼しげな印象を受ける。
しかし、レナータに差し出されたカシスオレンジは、よく見かける形のグラスに入っているからか、何だかただのジュースみたいだ。鼻を近づけてみれば、仄かにアルコールの匂いが漂ってきたものの、オレンジの爽やかで甘酸っぱい香りの方が余程強く嗅覚を刺激してくる。
「お嬢様は、初めてお酒を召されるとのことでしたので、初心者にも飲みやすいカシスオレンジをお作り致しました。クレームドカシスを、オレンジジュースで割ったカクテルでございます」
レナータが、あまりにも不思議そうな顔でグラスの中の液体を眺め回していたからだろう。わざわざ、バーテンダーが解説を入れてくれた。顔を上げれば、バーテンダーは品よく微笑んでいた。
その微笑みに促されたかのごとく、おずおずとグラスを両手で持つ。レナータのグラスには、オレンジの輪切りと共に、綺麗な形をしている氷がいくつか浮かんでいた。どうして、家庭で作った氷よりも、食のプロが用意した氷の方が美しい形をしている上、おいしいのかと、不意に疑問が脳裏を過っていく。
慎重にグラスを口元へと近づけていき、縁に唇を寄せる。それから、意を決してカシスオレンジを口に含む。
朱色の液体が舌を伝い、喉へと滑り落ちていった瞬間、鼻孔をオレンジの芳香が満たしていく。その甘酸っぱい香りと、舌に残る甘みにうっとりと目を細めかけたところで、アルコールの苦い後味につい真顔になってしまった。
レナータはロボットだった頃、人間についての学習の一環で、飲酒をした経験がある。その時は、アルコールの苦みに思わず顔をしかめてしまったものだが、人間ではない自分では酒の味を堪能することはできないのだろうと、結論付けた。
でも、まさか人間になってからもアルコールの苦みに抵抗を覚えるとは、予想だにしていなかった。
両手で包み込むように持っていたグラスを、そっとカウンターの上に下ろす。そして、緩慢とした動作で身体を隣に向ければ、涼しい顔をしてホワイト・レディをまるでジュースみたいにするすると飲んでいるアレスと、目が合った。間違いなく、人間になってから、初めての飲酒体験をしているレナータの様子を見守ってくれていたのだろう。
「……アレス」
「ん?」
せっかく飲酒をする機会を設けてくれたアレスのためにも、わざわざ宿泊客の個室まで足を運び、丁寧にカクテルを作ってくれたその道のプロのためにも、たとえお世辞でもこのカクテルを称賛するべきだ。
「……最初は甘くてさっぱりしていたのに、後味が苦いいいいい……」
だが、実際のレナータは涙目になりながら、さながらカクテルを舐めた子供みたいな泣き言を漏らしていた。
せめて泣くまいと目元に力を込めたレナータの目の前で、カクテルグラスから口を離したアレスは、ぽかんと呆気に取られていた。プライベートバーは、今ではしんと静まり返っている。
薄く形のよい唇をうっすらと開け、まじまじとレナータを凝視していたアレスは、何を思ったのか、突然こちらから顔を背け、思いきりカウンターの上に突っ伏した。
「……アレス?」
一体何をしているのかと目を瞬かせていると、カウンターの上に突っ伏しているアレスの肩が、小刻みに震えていることに気づく。
アレスに声を殺して笑われているのだと思い至った刹那、かっと頬に熱が上っていく。
「ア、アレス! 何をそんなに笑っているの! 笑うところじゃないでしょ!」
「いや……これは、笑うだろ……。そんな、ほとんどジュースみたいなもんで、苦いって泣きそうになるとか……」
たくましい両腕に遮断されているため、アレスの声はくぐもって聞こえたが、明らかに震えていることは分かる。
「味覚は、人それぞれでしょ! それなのに笑うとか、ひどいよ!」
すぐ近くにバーテンダーがいるから口には出せないが、正直カクテルよりもジュースの方が遥かにおいしいと思う。 クレームドカシスとやらをオレンジジュースで割らないで、オレンジジュースそのものを出して欲しかった。
アレスはひとしきり笑い、ようやく気が済んだらしい。ゆっくりと顔を上げると、指先で目元を軽く拭っていた。
泣くほど笑っていたのかと憮然としていると、アレスは何の前触れもなく、レナータのグラスをひょいと持ち上げた。そして、レナータが反応する間もなく、グラスに唇を寄せたかと思えば、瞬く間にカシスオレンジを飲み干してしまった。
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