私は、幸せだよ
墓地へと辿り着くと、まっすぐに両親の名が刻まれている墓標へと向かう。
両親の名は、アードラー一族の家系図から除外されてしまったため、代々のアードラー一族が眠る立派な墓が並ぶ区画ではなく、墓地の片隅にひっそりと佇んでいる、小さな墓に両親の遺体は埋葬されたのだ。
(でも……それで、よかったのかも)
母はアードラー家を毛嫌いしていた上、今ではアードラー一族の血を受け継ぐ者は、レナータとその娘たちだけだ。その上、十年前にアレスと結婚した際、レナータがヴォルフ家に嫁ぐという形式を選んだのだ。だから、実質アードラー家は絶えたといってもいい。
両親が眠る墓標の前にしゃがみ込むと、レナータの隣で膝を折ったアレスが、墓前に白百合の花束を一つずつ供え、黙祷を捧げた。
「……一年ぶりだね。お父さん、お母さん」
返事がないことは承知の上で、墓標にそう声をかける。それから、両親の名前が刻まれているそれぞれの墓石に、そっと触れる。
「私、今日で二十八歳になったよ。びっくりしたでしょ? それからね、この一年間も、頑張ってお母さんをやったよ。きっと、お母さんたちから見たら、まだまだ駄目駄目なところばっかりだと思うけど、それでも家族みんな仲良しだから、そこのところは褒めて欲しいな」
こうして一年の間に何があったのか、墓参りの度に報告をするのも、アレスと結婚してから、すっかり習慣となって身に染みついていた。
「子供たちもね、大きくなったよ。来年には、ティアナだけじゃなくて、ステラも学校に通うんだよ。 セレーナなんて、お姉ちゃんたちと手を繋いで、ここまで歩いてきたんだから。 子供の成長って、本当に早いよね」
でも、ずっと沈黙を保っている墓石に話しかけていると、次第に寂しさが込み上げてきてしまうから、そろそろ終わりにしよう。
「……また、来年も来るからね。――またね。お父さん、お母さん」
別れの言葉を告げるのと同時に、ゆっくりと立ち上がる。レナータに倣い、アレスも腰を上げると、大人しく後ろに控えていた娘たちへと振り返る。
「みんな、お待たせ。今度は、もう一人のおじいちゃんのお墓参りをしよっか」
レナータがそう口にした途端、三人の娘が分かりやすく目をきらきらと輝かせた。
レナータの最初の父であるカミルのことは、娘たちにはもう一人の父親だと説明している。そして、二人目の父親と母親よりも、ずっと昔に亡くなっているから、もうその死を悼む必要はないとも伝えている。
だから、カミルの墓参りの際には、色鮮やかな花々を供えて喜ばせようと提案したら、娘たちにとって楽しいイベントと化してしまったのだ。
(でも、その方が、カミルお父さんも喜ぶ気がする)
かつて人工知能だった娘が、今では三人の娘を持つ母親なのだと知ったら、父は一体どんな顔をするのだろう。
きっと驚くに違いないし、信じられないほどの奇跡を、我がことのように喜んでくれる気がする。
父の穏やかな笑顔を、朧気ながらも思い出したら、自然と頬が緩んだ。
花籠を片手に娘たちを連れて、この墓地で最も見事な墓標へと足を向ける。
この世界に人類の守り神をもたらした創造主として、父は今も尚、人々から崇敬の念を向けられている。その証拠に、今日も名も知らぬ人たちが捧げていったのだろうと思われる花々が、父の墓前に所狭しと並べられていた。
父の墓前で立ち止まると、レナータの後ろをついて歩いていた娘たちへと、身体ごと向き直る。そして、腰を屈めて娘たちに目線を合わせ、花籠を差し出す。
「はい、みんな。好きなお花を取ってね」
レナータがそう言い終わらないうちに、三人の娘が我先にと花籠に群がった。花籠に飾られている色とりどりのカーネーションを既に吟味していたのか、三つの小さな手がそれぞれ狙いを定め、勢いよく目当ての花を奪っていく。
ティアナは赤いカーネーションを、ステラは青いカーネーションを、セレーナは白いカーネーションを素早く選び取った。選んだ色は、それぞれの性格を反映しているかのようだ。
ついくすりと笑みを零し、レナータもピンクのカーネーションを手に取る。
アレスはレナータたちから少し離れた場所から、妻と娘のやり取りを見守ってくれていた。
花籠を一旦地面の上に下ろすと、娘たちの顔を順に見ていく。
「みんな、準備はできた?」
「できたー!」
「それじゃあ、せーのでいくよ」
「はーい!」
娘たちの元気いっぱいな返答に一つ頷き、深く息を吸い込む。
「……せーのっ!」
レナータが掛け声を発した瞬間、四人分の色が異なるカーネーションを、黄昏の空に向かって放り投げた。
ふわりと浮かび上がったカーネーションは、暮れゆく空を背にはらはらと舞い落ちてくる。どこか幻想的で美しい光景に、娘たちは歓声を上げた。
(――お父さん。私をこの世界に創ってくれて、ありがとう)
花の雨を全身で浴びつつ、夕焼けを仰ぎ見たまま、心の中で感謝の言葉を呟く。
かつてのレナータは、どうして自分を人間に限りなく近づけたのか、どうやって幸せになれというのかと、亡くなった父を呪った。息が止まりそうなほどの嘆きを知っても、それでも世界に存在し続けなければならないのかと、絶望に沈みそうになった。
だが、人類の思惑に翻弄されながらも、悠久の時を彷徨い続けた末に、運命の人と巡り会うことができたのだ。痛みを伴ったものではあったものの、一人の人間として生まれ変わり、その人と一緒に今日まで生きることができた。
それだけではない。愛する人との子供を三人も授かり、かつては人工知能に過ぎなかった自分が、家族を作ることができたのだ。
この世界に、人類の守り神も、悠久の少女も、もう存在しない。今、ここにいるのは、愛する家族と共に限りある生を全うすることしかできない、ただの妻であり母親だ。その事実が、泣きたくなるほどに嬉しい。
(私は、幸せだよ)
空から視線を外して振り向くと、不意に琥珀の眼差しと翡翠の眼差しが絡み合う。
「……そろそろ、行くか」
「うん」
薄く形のよい唇から零れ落ちてきた、低く美しい声に頷くと、どちらからともなく地面に散らばったカーネーションを拾い上げていく。両親の行動を目の当たりにした娘たちも真似て、次々と集めていく。家族みんなで回収したカーネーションは、当初の予定通り、父の墓前へと飾りつけていく。
「みんな、ありがとうね。――それじゃあ、お父さんも言ったけど、そろそろ今日泊まるホテルに行こっか」
毎年、三人の親の墓参りを済ませると、楽園から第六エリアに名を変えたこの地のホテルで一泊するのだ。そして、そこでいつもレナータの誕生日を祝う。
だから、レナータがそう声をかけるなり、娘たちは再度歓声を上げた。
「やった! ケーキだ!」
「お母さん。今年は、ティアナとお小遣いを出し合って、プレゼントを用意したの。だから、楽しみにしてて」
「本当? ありがとう。ティアナ、ステラ」
思いがけない言葉に、二人の娘の頭を順に撫でると、ただでさえ浮かれていたティアナは満面の笑みを浮かべ、ステラは澄ました表情を崩し、明確な笑顔を見せた。
「おとうさん、だっこー」
「ったく……しょうがねえな」
セレーナは、帰りは歩く元気がなくなってしまったみたいで、アレスに抱っこをせがんでいる。アレスは可愛い娘に苦い笑みを零しつつも、ひょいと片腕で抱き上げていた。
「ん」
セレーナを左腕に抱えたまま、アレスが当たり前と言わんばかりに、レナータに向かって右手を差し出してきた。だからレナータも、はにかみながらその手を取る。
「お父さんとお母さん、本当に仲良しさんだねー」
「ねー」
意味深長ににやにやと笑って冷やかしつつも、アレスとレナータの足元にティアナとステラが纏わりついてくる。
「二人は、ホテルまで歩いていけるかなー?」
「いけるー!」
「よし。じゃあ、お姉ちゃん二人は、もうちょっと頑張って歩こうねー」
「はーい!」
ティアナとステラが元気よく応えたところで、父の墓標に背を向ける。それから、アレスと手を繋いだまま歩き出すと、もう一度優しい風が頬を撫でていく。
すると、風に運ばれてきたらしい白い花びらが、突如としてレナータの視界を横切っていった。花びらに誘われるがごとく、咄嗟にその行方を目で追う。
あっという間に飛んでいってしまったから、自信を持って断言することはできないが、レナータの記憶が確かならば、あの花びらはおそらく純白の薔薇のものだ。父の墓前に供えられていた花の中に白薔薇も紛れていたから、もしかしたらその花びらが飛ばされてきたのかもしれない。
だから、たった今、目の前で起きた出来事は、間違いなく偶然だ。
しかし、何故だろう。レナータの目には、今はもうこの世界に存在しない父からの、祝福の証として映った。
「――またね、お父さん」
黄昏時という時間帯が、こんなにも切ない気持ちを湧き上がらせたのだろうか。今にも込み上げてきそうな涙をぐっと堪え、一度だけ父の墓標へと振り返り、ふわりと微笑む。そして、またすぐに前を向く。
誰にも聞かれないように気をつけたはずの囁き声だったのだが、聴覚が鋭い上にすぐ隣にいたから、アレスにはレナータの声を拾われてしまったみたいだ。まるで、レナータをこの世界に踏み止まらせようとするかのごとく、ぎゅっと強く手を繋ぎ直された。
「……大丈夫だよ、アレス。私は、ここにいるよ」
アレスしか聞き取れないくらいの小さな声で囁きかけ、その肩に少しだけ頭を預ける。でも、即座にアレスの肩から頭を離し、何事もなかったかのように微笑みながら、レナータも繋いだ手をきゅっと握り返す。
「だから、アレス。これからも、一緒にいようね」
子供たちが成長していく様子を、一緒に見守っていこう。娘が皆、巣立つ時が訪れても、一緒にその時を迎え入れよう。
別れの時は、いつか必ず訪れる。そして、それは誰が先か、全く分からない。
歳の順で考えれば、この家族の中で最初にこの世界から消えていなくなるのは、アレスだ。
だが、人生は何が起きるか、予測がつかない。もしかすると、レナータが一番先にいなくなってしまうかもしれないし、娘のうちの誰かという可能性も皆無ではない。
だから、できるだけ後悔を味わわずに済むよう、一緒にいられるうちは共に在ろう。そして、痛みを受け入れられるだけの強さの糧とするための、思い出をたくさん作っていこう。
「――望むところだ」
かつて、この世界に産まれてきてくれたことへの感謝と共に告げた、約束の言葉を口にしたら、あの時と同じ答えが返ってきた。
「愛している、レナータ」
続けて囁かれた愛に、先刻は我慢できたはずの涙が溢れ出し、目尻から一粒零れ落ちていく。
その想いに少しでも応えたくて、涙を流しつつも精一杯の笑顔を作った。
「私も……愛しているよ、アレス」
悠久の少女 After Story 小鈴莉子 @Kosuzu-Riko
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